「いいかい、アス。女の子はね、繊細でか弱い生き物だから、乱暴に扱ったり酷い事を言っちゃダメだ」 「……」 「特に伊織ちゃん。あの子は家族を亡くし、表面上は元気に見えてもきっと心は酷く不安定だよ」 「……」 「何があっても怒っちゃダメだ。今のあの子の心の拠り所は、私達だけなのだから。いい?」 「……ああ」 ナイーブセレナーデ 「おにいちゃぁん」思わず全身の力が抜けてしまいそうな、そんな甘ったるい声が部屋中に響いて、軋識はゆっくりと瞳を開けた。 …何だ今の。 体中の骨が全部溶けるかと思った… ぼんやりと霞んだ視界いっぱいに広がる真っ白な天井を見つめながら思う。 段々意識が覚醒していく中、身に覚えのない痛みが体中の節々に広がっていくのを感じ、眉を顰めた。 「お、大将、起きたか。そんなトコで寝てて、体痛くねーの?」 「…あちこちがバキバキ言ってるっちゃ」 「だろうなあ」 掠れた声を無視して返答すれば、後半はもう殆ど声になっていなかった。 人識はそんな軋識の様子をさして面白く無さそうに、かはは、と笑って手にしていたケーキを頬張った。 自分の目線と人識とは四十五度の違いがある。 人識がソファで寛ぎ、そんな人識が横にして見えているということはつまり、今自分はソファで寝ていたという事になる。 うたた寝どころではなくかなり熟睡してしまったらしい。 前後の記憶を辿る事すらできずに、軋識はその大きな体をゆっくりと起こした。 いくら弾力性があるとはいえ、睡眠用に作られていないソファでは窮屈で硬くてしょうがない。 腕を伸ばし背を反らせ、首を回して、バキバキと骨を鳴らせば、人識がまた、かはっ、と今度は面白そうに笑った。 「おや、お目覚めかい?アス」 後ろからそんな声が聞こえて、体慣らしついでに、ソファに寄り掛かって首を仰け反らせる。 世界が反転。 細められた赤と視線がぶつかった。そしてそれから、吸い込むような緑と… 「…何ぶら提げてるっちゃ」 「何って…伊織ちゃん」 「ですよう」 見なきゃ良かった。 小さく舌打って、軋識は体を起こす。 まるで何かの妖怪のように双識に負ぶさっていたのは、紛れもない妹であり、自分の…… 「たいしょーさ」 「あ?」 「最近ちゃんと寝てるか?」 唐突に声を掛けられ、軋識は意識をこちらに戻して向かいに目をやった。 先程、つい先程まではかなりの大きさあったケーキが今や一切れ分の塊と化していた。 「…どういう意味だっちゃ」 「あんま考えても仕方ねえ事考えてもさ、何もなんねーぜ?」 「何が言いたい」 「ん、いや。下世話だったか」 悪ィ と肩を竦め、人識は最後の一欠けを口へと放り込んだ。 何が言いたいのかと睨み付けても、当の本人はもう話す気が無いらしい。 目線を下に、見るだけで胸焼け起こしそうなクリームをべっとりとつけた指を順番に舐め取っていた。 きゃはは、と後ろで甲高い声がした。 振り返るまでもない、後ろには二人しかいないのだから、誰が、だなんて検討、つけるまでもない。 あの仲の良い二人だ、どうせ何か…どうでも良いような事で盛り上がっているのだろう。 何を…? どうでもいい、とは、一体… 「…っ」 込み上げる感情がある。 ここ最近ずっとだ。何か、どろどろした、気持ちが悪いもの。 どうやら寝覚めが悪かったらしい。 今回のものは、普段と比べて酷く暴力的なものに思えて、軋識は手を拳に変えて、グと握り締める。 すぐさま広がっていく痛みによって、心が静まっていくようだった。 「たーいしょ」 「…何だ」 「んな睨むなよ。…散歩でも行かね?」 「…一人で勝手に行けっちゃ」 「あそ」 必死で人が心を落ち着かせようとしているというのに。 人識は知っているような顔つきで、逆撫でするような軽口で、…煽っているとしか思えなかった。 「ひーとしーきくーんっ」 「あ?、っうお!」 「構って攻撃ですよー、そりゃー!」 「ってめ、やめろ、重い!」 「!!人識くんのばかー!」 ぎゅうううう。 そんな音が聞こえてきそうだった。 軽やかな足取りと、楽しそうな声色でやってきた舞織は、構って攻撃と称して人識に後ろから抱き付いた。 止めろと言いながらも、舞織を剥がさない人識は、ソレをわざとやっているように見えたし、 舞織は舞織で、自分の向かいにいる男が誰なのか分からずに、見せつけるようにやっているとしか思えなかった。 っ… 折角静めた、ものが… 『いいかい、アス…… 先程、夢で見た、レンの言葉が不意に浮かんで、それがまた無性に苛立たしくて。 本能に任せて理性など切ってしまいたいと、…そう一時思い掛けたが。 「軋識さん?」 「…」 「具合、悪そうですね、大丈夫ですか…?」 「…俺に触るなっ!」 「っ痛…」 女の子はね、繊細でか弱い生き物だから、乱暴に扱ったり酷い事を言っちゃダメだ』 分かってる、そんなこと。 言われるまでもない、俺がそんな事をするとでも思ったのか… 俯いた俺に手を伸ばした舞織の、その細い手を払い除けて、痛そうにその手を包む舞織を一瞥して、部屋を出る。 後ろでレンの批難の声、人識が舞織を気遣う声が聞こえて、ああもう… 堪え切れずに、ドアを思い切り閉めた。 耳を劈くような音がして、静まり返る。 冷えた暗い廊下に出て、急激に感情が冷めていくのを感じた。 そして同時に、情けないと自分を攻め立てる声が聞こえ出した。 何が分かってるだ、何がどろどろした感情だ。 全部全部、青臭いガキみたいな、ただの…… ドアが、…閉めたドアが、開く音がして、そちらに目をやる。 顔を覗かせた舞織が、軋識と眼が合ってビクリと体を強張らせた。 「あ、の…」 不安そうな、怯えた声。 けれど瞳に、縋るような色が見え隠れしているような気がするのは、なぜだろうか… …… 手前勝手な過剰で、憶測で物事を図っている自分に、嫌気がしてきた… 「何だっちゃ」 酷いことをしたのに、追い掛けてきたのか、こいつは… そんな事を考えながら、本当は嬉しいくせにわざと突き放したような、冷たい声を返す自分がいた。 舞織はそんな俺に慌てたらしい、瞳に涙を浮かべた。 「あ、あの、わたし…また、なにかひどいこと…」 「…違う」 「で、でも軋識さん、怒って…」 「…だから違う」 「でも」 「違うって、言ってるのが分からないか!!」 「っ!」 しまった そう思っている時には、大体の事が終わってしまっているんだ。 大きな緑色の瞳から、大粒の涙が零れた。 「う、う」 「…っ」 「ごめ、なさい…っ」 「…っ謝るな」 「でも、…っごめんなさい…」 「ッ」 痙攣を起こすようにしゃくりあげて、舞織は必死で涙を拭う。 それに負けじと、涙はどんどんと量を増す。 ごしごしと、後で腫れ上がってしまうだろうぐらい強く擦り始めて… 「っ、やめろ」 「、だって…なみだ、とま、な…っ」 『いいかい、アス。女の子はね、繊細でか弱い生き物だから、乱暴に扱ったり酷い事を言っちゃダメだ』 分かってるんだ、本当に。 優しくしてやりたいと、思ってる。 けど、分からないんだ、レン。 俺はこの子をどうしたいんだ。 腕の中で小さくしゃくり上げる、こんな小さなものを、どうしたら良いんだ… 潰してしまいそうな、大きな、どろどろとしたものを、知って欲しくない。 「きししきさ、」 「…っ」 『何があっても怒っちゃダメだ。今のあの子の心の拠り所は、私達だけなのだから。いい?』 俺の心の拠り所がここならば… 俺はどうしたら良い…? |