おねえちゃんは、何でもできてかっこよくて、いつだってわたしに優しくて。 世界一のおねえちゃんだった。 どこでだって、何でだって、自慢のおねえちゃんだった。 だから、そんなおねえちゃんに愛されている私は、きっととっても、幸せな妹に違いないんだ。 狂気の沙汰も愛次第 「由宇!」 帰り際、声を掛けてきたのはクラスで一番仲良しの、幸実ちゃんだった。 私は肩に掛けた鞄に手を添えて、振り返る。 幸実ちゃんは、何だか少し申し訳なさそうな顔をして、私に向かって手を合わせた。 「どうしたの?」 「あのね、由宇を私の一番の親友と見込んでお願いがあるのっ!」 「なあに?」 お願いごと。 昔から人一倍不器用で、そつなくこなすおねえちゃんや、クラスの皆とよく比較されてきた私。 勉強も運動も、何だって人一倍やらないと人並みにはなれなくて。 だから私へのお願いごとと言えば、掃除当番を変わってほしいなんてものぐらいで… 幼馴染みの幸実ちゃんも、そんな私のダメっぷりを知ってるから頼みごとなんてしてこなかったのに。 クラスの委員長でもあるそんな幸実ちゃんが、私にお願いごとだなんて嬉しくって、私は内心ドキドキワクワクしながら、幸実ちゃんの言葉を待った。 「うん、その、ね」 「うんうん」 幸実ちゃんはなぜかとても言いづらそうに、眉を顰め、その可愛い顔立ちを崩していた。 私は、何を気にしているのかちっとも分からなくて、先を促すように口を開いた。 「どうしたの?私にできることだったら何でも協力するよ!」 「うん、ありがとう……あの、さ…由宇って…髪、凄く長いよね」 「へ?」 やっと振られたその話題に思わずぽかんとする。 髪……髪ってこれだろうか… 私は腰の辺りまで伸び切った髪を手に取り、これ?と聞いてみる。 幸実ちゃんは頷いて、まだ言いづらそうに、けれどどうしても頼まなくてはいけないことなのか、口を開いた。 「その髪ってさ……何か…あって、伸ばしてんの?」 「なんか?」 頭の回転が人の一倍も二倍も遅く、鈍感な私は、困っている幸実ちゃんを見ても察することができない。 首を傾げると、幸実ちゃんはお伺いを立てるようにして上目遣いに私を見上げた。 幸実ちゃんは、バスケ部の部長もしていて、クラスの委員長にもなっていて…面倒見がよくてかっこうよくて…とても周りから好かれていた。 中でも、その性格とのギャップに驚く小柄な体が愛らしさも醸し出していて堪らない。 本人は気にしているらしいけれど… そんな彼女に上目遣いをされて、平静を保てる人って、いるのだろうか… 同性の自分でさえ、こんなにもドキドキしている。そんなことを考えながら、私は幸美ちゃんの次の言葉を待った。 「うん、例えば…好きな人が長い髪の女の子が好きでーとか…」 「すっ好きな人!?そそそそんな人いないようっ!!」 「例えばの話だってば」 「そんな人……いたらとっくに話してるよ…」 突如出されたドキドキする話に、私は大慌てで手を振った。 幸実ちゃんはそんな私の様子に笑って、じゃあ、伸ばしてる理由はないの?と首を傾げた。 「ええっと………特に、意味はないよ」 一瞬、言葉に詰まってしまったのは、おねえちゃんの存在を思い出したからだった。 取り柄の見つからない私が、きっと唯一誇れるのは、この髪だと思う。 小さい頃から何も弄らず、おねえちゃんがオススメだよといってくれたシャンプーとリンスを使って洗っている。 おねえちゃんが梳かして結って切ってくれていたおかげか、私の髪は純日本人としての黒さを失わず、その上コマーシャルで見るようなつやつやの髪を保てていた。 触ると気持ち良いね、つやつやしてて羨ましいなあ、と生きてきて何度言われたか分からないほど。 自慢のおねえちゃんも私と同じぐらいの長さをしていたけれど、そのおねえちゃんにだって負けてないかもしれない。 その上、大好きなおねえちゃんは私の髪を自慢に思ってくれているようで、私とってとても誇らしいことだった。 そのことが、一瞬だけ、脳裏をよぎったのだった。 「私の髪が…どうかしたの?」 「……あの、実はね……まだ、誰にも言ってないから、内緒にしてほしいんだけど…」 「誰にも言わないよっ私が口硬いの、幸実ちゃん知ってるよね」 「うん、だからあんたに話すんだけどさ…」 幸実ちゃんは、私の髪が無造作に伸ばされていると聞いて、幾分表情を和らげた。 「私ね、実は…美容師、目指してて…」 「!!!!?びっ…!!びひょうひっ!!?」 「バカッ!静かに!!」 「ぷはっ…ご、ごめんっ……でもでもっ!え、ええ!?幸実ちゃんが!?」 咄嗟に口を押さえられたその手がどいて、私は声も出せずぱくぱくと口を開けた。 俄かには信じがたい事実、活発で明朗で、元気いっぱいの親友が、美容師を目指しているという。 初耳だったし、意外だった。 けれど、とてもよく似合うとも、思った。 「う、うん…ちょっと、ね…良いなあって…思ってて……思ってるだけ、なんだけどさ」 「うわあああ!かっこいい!かっこいいよ幸実ちゃん!!すっごく似合う!似合ってるよ!!私、将来幸実ちゃんが務めてるところで髪切ってもらいたい!!」 「ほんと?…ほんとに、そう思う?」 「もちろんだよ!幸実ちゃん器用だし、きっとなれるよ!!」 鋏と櫛とを器用に使いこなす幸実ちゃんを想像するのは容易くて、その決まっているさまに、私は興奮を抑えられない。 段々と口元綻ばせていく幸実ちゃんに嬉しくなって、二人で手を繋いで、意味もなくぴょんぴょんと跳ねた。 「それでね、練習がしたくって…」 「練習?」 「うん、やっぱりイメージとか…偽物じゃうまく掴めなくてさ………由宇…さっき、私に髪切ってもらいたいって…言ったよね?」 幸実ちゃんが、自分の鞄から、美容師さんが持っているのによく似た鋏を取り出したのを見て、私はそこでようやく気付いた。 「私の髪を、練習台にしたいって、ことだね」 「うん…由宇の髪、すっごい綺麗だから…切るの勿体ないなって思うんだけど…でも、由宇はもっと短い方が可愛いと思う」 「かっ可愛いだなんてんそんなそんなっ!」 「ダメ……かな?」 「まさか!!良いに決まってるじゃない!もし私の髪が何か訳があって伸ばされてるとしても、幸実ちゃんの役に立てるなら…私なんかの髪で良かったらいくらでも使ってよ!!」 「由宇…!」 本当に、嬉しかった。 責任感の強い幸実ちゃんのこと、人に切らせてなんてきっと言い出すのに苦労したはずだ。 鋏だって持ってきて、もし私があそこで、髪を伸ばしている理由があると知ったら、何でもないと言って笑っただろう。 幸実ちゃんはそういう人だ、優しくて思いやり溢れて、うんと気遣いもできて。 いっぱいいっぱいお世話になって助けてもらってるから、役に立てると思うだけで、本当に嬉しかった。 私と幸実ちゃんは、日の落ち出した屋上へと走った。 日も大分落ちたその頃、私は玄関の前に立っていた。 腰の辺りまであった髪は、今は肩を過ぎて少しいったところまでの長さになっていた。 右の角度から左の角度から、前から後ろから眺め、慎重に切られていった私の髪は、量も長さもだいぶ減って、何だか体が軽くなったようにも思えた。 幸実ちゃんは我ながら自信作!と嬉しそうに笑っていた。 帰りに擦れ違ったクラスメイトも、私の短くなった髪を見て、可愛い、凄く似合ってるよと微笑んでくれていた。 それが嬉しくて…幸実ちゃんが喜んでくれたのも、役に立てたのも、自信に繋げてもらえたのもとても嬉しくて。 何度もありがとうを繰り返す幸実ちゃんを遮って、私がありがとうを返してしまうほどだった。 「おねえちゃんも、可愛いって言ってくれるかな」 玄関のドアを開けて靴を揃えながら、そんなことを考える。 と、玄関の音が聞こえたのか、それとも下に用があったのか、二階から下りてくる足音が私の耳に入った。 「由宇?」 「おねえちゃん、ただいまあ」 「お帰り、ゆ……う?」 足音の正体はやはり双子の姉の、三宇だった。 鏡のようにそっくりなのに、まるで違う双子のわたしたち。 今朝までは本当に鏡のように同じ長さだった私の髪の、その長さを見て、おねえちゃんは驚いているようだった。 「どう、かな?」 「どう……って……なによ、それ」 「え?」 似合うかな、と言葉は続けられなかった。 玄関に突っ立つ私に勢いよく向かってきたおねえちゃんは、私の手を信じられない力で握り、引っ張った。 「な、なにっ?痛いよっ」 「いいから来なさい!!」 おねえちゃんは物凄い剣幕で私を睨みつけ、それっきり何か呟くように口を動かしながら、二階へと私を引っ張って行った。 部屋は二人で一つ使用している。もう一つ余っているのだが、夜が苦手なおねえちゃんのため、小さい頃から使用している二段ベッドで今も生活をしていた。 机も、ベッドも、持っている服も、他のものものみんなみんな同じ。 ただ違っているその制服は、おねえちゃんの頭の良さを表わすように、びしりとかっこうのよいもので。 今し方帰ってきたばかりなのだろう、まだ制服のままのおねえちゃんに引かれ部屋まで連れてこられた私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。 「…そのかみ」 「え?」 「どうしたの?」 「あ、あの、ね、近所の…幸実ちゃんって、知ってるよね?その子がね…あの…その……」 美容師を目指していて…と口走りそうになって、慌てて口を噤む。 内緒だよと言われていたのを思い出したのだ。 いくら学校が違うとはいえ身近な存在だ、教えても良いかを私が決めちゃいけないと、私は言葉を濁した。 「なに……私に…隠しごと?」 「違うのっ、内緒にしててって…言われてて…」 「由宇は…私に、隠しごと、するんだ…私は、何でも由宇に話してるのに…」 「おねえちゃん…?」 「私が、切るのじゃ…ダメだったの…?」 「ど、どうしたの、おねえちゃ…っ」 ひとり呟くようにして放たれる言葉に私は言い知れぬ不安を感じながら、机に手をついて俯くおねえちゃんに近づいた。 するとおねえちゃんは私の手を振り払って、つり上がった目をこちらに向ける。 「痛っ…」 振り払われたその手がひりひりと痛む。 痛みを押さえるように手を添えれば、ぬるりと赤いものが掌についた。 「………っおねえちゃん、何して…!!」 ざくり、と音がして、私は我に返る。 音のした方、おねえちゃんを見遣れば、おねえちゃんはおもむろに自分の髪を乱暴に掴んで前へ流して、手にした鋏でそれをざくりと切り落とした。 はらはらと散った短い髪が床へ落ちるのを自然と目で追ってしまう。 おねえちゃんは、掴んだその髪の束を、乱暴にゴミ箱へと捨てた。 状況の呑み込めない頭で、ゆっくりと顔を上げると、肩よりも短い髪をした姉が、こちらを見ていた。 薄暗闇に反射する鋏の光を受けて、その眼光は、とても鋭くて、ぞくりとした。 「な…」 「由宇も」 「…え?」 「由宇も…こっちきて」 「や、やだよ、おねえちゃん…ねえ……」 「早く!!!」 もう半べそ状態の私にきつい一言が飛んできて、私は驚いてその場に座り込んでしまう。 それでも早くと急かすから、私は腰の抜けたその体を引きずって、おねえちゃんの傍へと身を寄せた。 「お、おねえちゃん、それ、はやくどっかやってよ、お」 手に持つその鋏がおねえちゃんの人格を変えているような気がして、私はしゃくりあげながら何とか言葉を放った。 けれどおねえちゃんは何も聞こえていないようで、虚ろな目をして、やはり何か、耳には届かない言葉を呟きながら、私の後ろへと回った。 「お、おねえちゃ…」 瞬間、ざくり、と先程耳にしたような音が、すぐ耳元で聞こえた。 「え、ちょ…っ」 「動かないで」 慌てて体を動かそうとして押さえつけられた肩に顔を顰めながら、私は耳元で響く、ざくざくという音にただ震えていた。 そうして一分経ったのか…十分経ったのか…妙に張り詰めた空気がふっと和らぐのを感じ、私はそっと顔を傾けた。 「おねえちゃん…?」 「由宇は…私でしょ?なんで、そんな勝手なことするの」 「何言って…」 「おねえちゃん大好きって…おねえちゃんが言うことに従うって…言ってくれたじゃない…」 見上げた私の頬に落ちたのは、一粒の涙だった。 俯けた顔からぼろぼろと落ちてくる涙に私は目を丸くする。 「…い、言ったけどそれは…」 「嘘なの?」 「おねえちゃん」 「嘘なの、由宇は、私に嘘つくの?私は、由宇を信じてるのに…由宇は、私を裏切るの?」 「そんなこと…っ」 「由宇は、だめだよ、私の、なんだから…そばにいてくれなきゃ、だめだよっ」 そう言って、おねえちゃんは私を抱きしめた。 傍でからんと鋏の落ちた音が聞こえた。 「一人に」 「え?」 「一人に、しちゃやだよ、由宇…」 「おねえちゃん…」 おねえちゃんは、何でもできてかっこよくて、いつだってわたしに優しくて。 世界一のおねえちゃんだった。 どこでだって、何でだって、自慢のおねえちゃんだった。 自慢のおねえちゃんは、皆の期待に答えようと頑張った。 頑張れば頑張るだけ成果は上がって、期待の量もうんと増えた。 そのうちおねえちゃんは、成果を出すために頑張るんじゃなくて、皆の期待にこたえるために頑張るようになった。 完璧なおねえちゃんは、完璧を目指し続けて、いつしかこんな風に泣くようになった。 頑張り続けるおねえちゃんを休ませてあげたくて、こっそりおねえちゃんに成り済まして、とある事に失敗したとき、おねえちゃんはぐちゃぐちゃに泣いて喜んでくれた。 由宇だけだって。 わんわん泣いて、とある事に失敗して計画がダメになったことを責めた人たちを、端から順に、同じように責め続けた。 「おねえちゃん、ねえ…おねえちゃん」 私の声に、ゆっくりと上げられた顔は、あの時みたいに涙でぐちゃぐちゃだった。 「ごめんなさい、私、ばかだから…おねえちゃんの不安にも、嫌なことにも、気付けなかったね」 「ゆう」 「おねえちゃんの嫌がること、全部しないよ…だから、泣かないで」 大好きなおねえちゃんが辛い思いをするのは、身を引き裂かれるような気分になった。 双子だからかな、そう呟くと、おねえちゃんは嬉しそうに笑ってくれていた。 気持ちが分かり合えれば、助け合えるねと。 助けられっぱなしの私が、おねえちゃんにしてあげられることは、本当に何もなくて。 何もないくせに、おねえちゃんのこと泣かせて。 私は本当にどうしようもない。 「おねえちゃん、大好きだよ」 きついぐらいのその目は、痛そうに赤く腫れていた。 明日になっても、腫れは残るかも知れない。 私は、その腫れが少しでも減るように、そっと瞼に口付けた。 「由宇……」 けれどそんな口付けも、無駄だったみたいだ。 おねえちゃんは、またぼろぼろと涙を零してしまった。 私はおねえちゃんがするように、おねえちゃんの背中に手を回す。 視界の端に映った鏡には、まるで私が私を抱いているように見えた。 |