wheedling child
隣にあった温もりが夢から覚めたと同時に無くなっていると

幸せが無くなって胸にぽっかりと穴が空いたような空虚な気持ちに陥る。


そうして不安と焦燥が、俺を駆り立てるのだった。
wheedling child
ぺたぺた と冷たいであろうにフローリングを素足で歩く音が聞こえてきた。

もうそんな時刻なのかとジェイドは壁に掛かった時計を見上げる。


随分読み込んでいたらしい…

ベッドに戻ろうと決めていた時刻はとうに過ぎていた。



「…ジェイド」



背後でドアが開いて、肌を刺すような冷たい風と、掠れた小さな声が流れ込んでくる。


起きてしまった事態はもう修復不可能だ。

今更言い訳したところで、彼は聞く耳を持たないだろうし、下手をすればへそを曲げられてしまうだろう。


ならば、気付かぬ振り、素知らぬ振りを決め込むまでだ。



「ジェイド」



今度はハッキリ、しかもとても近くで声がした。

驚く振りをするまでも無く、ジェイドは驚きに手を滑らせた。


ゴト と今し方まで読み耽ていた本が、カバーを残して手から滑り落ちて床へと落ちた。



「おや、ルーク。お早うございます」

「…別に早くねぇよ、もう昼だろ」

「そうですね」



どうでも良さそうに吐かれた言葉に耳を貸しながら、ルークは床に落ちた本を拾ってジェイドに手渡した。

「ありがとうございます」と律儀にお礼を言われるが、彼は無言で返す。


ちらと視線をソファに仰向けに寝転んだままのジェイドに向ける。

と、彼は早くもその本をまた読み始めていた。



「なぁ、何で…そういう事するんだよ」



ああ、きた。


ジェイドは並べられた字を目で追いながら思う。



「そういう事、と言いますと?……ルーク、重いですよ」



ソファが重みに沈んだ。

ジェイドの体も沈む事を余儀なくされる。


ルークは不快感を隠そうともせずに思い切り眉を顰めて、ジェイドの上に跨って、自分と彼とを掛け隔てている本を取り上げた。



「…うぜー」

「そんな言葉遣いをするとまたガイに怒られますよ」

「今はジェイドしかいないだろ」

「それは……尤もですね」



ジェイドが窘めるように、毒付いたその唇に触れる。

が、ルークは反抗するように、そのジェイドの細く白い骨張った指をガリと噛んだ。


「痛いですよ、ルーク」とさして痛そうには聞こえないジェイドの言葉が下から聞こえる。

が、痛いだろう事は噛んでいる本人が一番分かっている。

ルークは口を開けて、ジェイドの指を解放してやった。



「ですが、そのような言葉は誰も歓迎しませんよ」

「あーもう、分かった。分かったから先生みたいな事言うなよ」

「おや…まさかルーク、あなた先生にもこのような言葉遣いをしてるんじゃ…」

「してねーって」

「どうだか、怪しいところですね」

「なっ」



いけしゃあしゃあとジェイドは意地の悪い言葉を残し、テーブルに置かれた本に手を伸ばした。



「っ、ジェイドだって」

「……何ですか」

「ジェイドだって、俺との約束、破るじゃんかよ」



三度読み始めた本の向こうで、少し弱った風な声が聞こえてきた。


折角逸らした話題が、また戻ってくる予感がし、ジェイドが口を開く。



「ル…」

「一人にしないって、言ったじゃん…」



が、ルークがソレを遮って、拗ねた口調で吐き捨てた。

本を少しずらして相手の様子を伺うと、まるで捨てられた仔犬のようにルークはジェイドの上で項垂れていた。



「……破るつもりは無かったんです。ただ、気付けなかったんです」



避けたい話題はどうやら避けられそうに無い。


目の前で泣きそうに顔を歪めるこの子を放っておく事もできずに、ジェイドは申し訳ないという思いを込めてルークの頬に触れた。

ルークはその手に自分の手を重ね、俯けていた顔を上げて、ジェイドと視線を絡めた。



「…ソレ読んでたから気付けなかったのか?」

「ええ」



ソレ、と目で差したのは、ジェイドの手の内にある小さな文庫本だった。

ルークは、本とジェイドを交互に見遣って、今度は拗ねと甘えを含めて口を開いた。



「俺より大事?」

「いいえ」

「ホントに?」

「勿論です」



疑るような目付きは、暫し思案に色を染め、それから小さく溜息を吐いて、消え失せた。



「分かった」

「何がです?」

「ジェイドに悪気があったんじゃないって事が」

「そこからですか」

「それと、本より俺の方が大事ってのも…信じる」

「ありがとうございます」

「…その代わり…」

「……何です?」



漸く貰った許しに胸を撫で下ろしたのも束の間、何か言い淀むルークにジェイドは息を潜めた。



「今は読むのやめてくんねぇ?」

「え?」

「捨てろとは言わないからさ…」

「…はぁ…」



何を言われるのかと構えていれば、いまいち掴み兼ねる言葉だった。

ルークの言わんとする事が分からず、ジェイドは説明を促すように首を傾げる。


一方のルークは、物凄く言いづらそうに眉を顰めていた。



「だから!朝隣にいなかった罰だ!…今は、本じゃなくて、……俺を、構って…よ」



「あーもう!」とルークは恥ずかしさを隠すようにジェイドの上へと倒れ込んだ。



「………」

「………おい」

「………」

「おいってば!」

「え、あ、はい」

「…返事は?」



そのまま動かなくなってしまったジェイドに、ルークは訝しんで頬も赤いままに顔を上げる。

ぶっきらぼうに返事を促され、ジェイドは気が抜けたまま「あ、はい」とまたも間の抜けた言葉を返した。



「……………全く……可愛いですねぇ、あなたは」

「…言ってろ、ばぁーか」



じわじわと沸いてきた現実味に、ジェイドはぽつりと言葉を零した。


そんな風にしみじみと言われたところで、ルークは嬉しくも何とも無い。

が、優しく撫でてくる大きな手はルークに言い得ぬ幸せをくれた。


お返しと言わんばかりにルークはジェイドの首に腕を回して、思い切り頬に口付けた。



「じぇーど」

「何ですか、ルーク」



返答と共に頬に口付けると、ルークが耳元で小さく笑うのが分かった。



「…すき…」



ちゅ と可愛らしい音を立てて、頬に触れ、すぐに離れていった唇。



「すっごいすき…」



言葉に思いを乗せて、ルークは今その思いを実感しているかのように「すき」を繰り返す。

そうして、好きの数だけ口付けるつもりなのだろうか…ルークはジェイドの整った顔に次々と口付けていく。


好きなようにさせてやると、不意に耳を甘く噛まれて、思わず肩を竦ませた。



「ルーク?」



何たる失態。

恥ずかしさを極力表に出さないようにして、ジェイドは咎めるようにルークの名を呼ぶ。


が、ルークは反省の色無しとばかりに幼い笑みをジェイドに向ける。



「だいすき、ジェイド」



ひやりと冷たい両の手が頬を包んで、ちゅう と唇に触れた。