コンコンとノックの音、に似せた声がドアの向こうから聞こえた。 その声は、あのうんざりするような長広舌を髣髴とさせる浮遊的な声だった。 呪い 「………」 江崎はノックの音、に似せた声がした方へ静かに顔を動かした。 その瞬間、音にできないような激痛がそこかしこと走ったのだが、無痛症の彼の知るところではない。 ドアには曇りガラスが取り付けられている。 その曇りガラスの底辺、下の方にちょこんと黒いものが見えていた。 「コンコン」 また声がした。 それは先程同様、静かで静かで不安定で不安定で仕方が無い声だった。 「……入ってもいいですか?」 「……」 「放置プレイも良いですが、公共の場で放置されるのは居た堪れません」 女の子にそんな痴態を強いて楽しいですか? トーンのない声色の持ち主がそう言いながら、ガラリとドアを開けた。 まぁ、それが放置プレイなのですけどもね。 自嘲するように、少女は笑う。表情なくして笑うというのも変な話ではあるが。 ともかくとして。 失礼しますと静かに呟いてドアを開け、下げた頭を上げた少女は、江崎が頭に描いてやまない少女だった。 意識を失うその瞬間まで離れたくないと強く願った、 意識を回復したその瞬間から会いたいと強く願った、鏡那緒美その人だった。 那緒美はあの日と変わらない雰囲気のまま、けれど休日の今日は私服に身を包んで、静かに静かにドアを閉めた。 「お加減は如何ですか?」 那緒美は音も無く、ペンギンのように微笑ましい動きで歩いて江崎のベッドへ近づき、傍に置かれてある椅子に腰掛けた。 「と言っても痛覚の無いあなたに加減も何もありませんね。私とした事が不覚。では改めましてお久しぶりです、江崎彰一さん」 那緒美は、江崎から視線をほんの少しも外さず逸らさずずらさずに喋り、最後に小さくお辞儀をした。 初めて名前を呼ばれたと江崎は思考する。 少女、那緒美はもうどこ吹く風で、そんな事には頓着せず ―というより気付いていないのかも知れないが― 病室内をきょろきょろと見回していた。 江崎は、その少女をずっと見ていたいと思った。けれどふと、医者に言われた事を思い出した。 「…ずっと、付いててくれてありがとう」 「はん?憑いてて?そりゃ当たり前、当たり前でしょう、何を言ってるんですか。私とあなたは呪い呪われ憑き憑かれる仲ではありませんか」 「そうじゃなくて」 「では何です?」 静まった瞳が、淀んだ中に自分が映っていた。揺れて揺れて、それでも消えない己の姿。 首を傾げ、肩を竦め、瞬きをし、那緒美は先を促した。 「運ばれる時」 「ああ」 単語一つに、那緒美は合点がいったのか、大きく頷いた。 頷いた後に那緒美が口を開いたので、江崎は少々慌てた。 慌てると言っても、傍目にも見た目にも分からない、もしかすると自分でも分かっていないほど、小さな狼狽だった。 「それからもう一つ」 遮るように江崎が放った言葉に、那緒美は目を瞬かせた。 分からないが、本人は驚いているつもりらしい。 「今日は饒舌ですね、珍しく饒舌。人が饒舌になる時というものは必ずしも何かが付いているのです、いえ、憑いているのです。嘘を言う時、慌てる時、優先して欲しい時、興奮している時…」 「あの」 「ああ、すみません、どうぞ心行くまでお話下さい。時間はたっぷりあるのですから。私達はまだ知り合って間もないのです、互いを知るには時間が必要、以前も言いましたっけ。それに私、無口な方は苦手。私一人饒舌で会話のキャッチボールどころか一人で壁投げです。それに比べれば、喋られないあなたが喋る事は素晴らしい…ああ、ごめんなさい」 口を開くともう止められないのか、那緒美は小さな手でぱふんと口元を押さえた。 どうぞと目で促される。 「その事なんだけど」 「どの事ですか?」 間髪入れずに聞き返された。 「時間があるとか、」 「ええ」 「もう俺達の関係が終わりだと…前に」 江崎が言い終わる前に、那緒美が一言「失礼」と遮った。 それは遮っているようで、まるで独り言のような小さな呟き。けれど絶対的な、口を挟めない、むしろ口を挟まれたような言葉だった。 那緒美は、黙してベッドに身を乗り上げ、江崎に触れる。 そこかしこの擦り傷に、切り傷に、刺し傷に。 それから額に触れる。 昔の傷をなぞって、なぞってなぞってなぞってそのまま、こめかみへ細い指が這う。 痛いの痛いの飛んでけーと那緒美は呟いた。 それはあの時、夢現に何度となく聞いた、馴染みある言葉だった。 「完治まであとどのぐらいなのです?そこかしこの包帯はあとは自然治癒と見ます。問題は額、貫かれたにも関わらずよく生き長らえましたね。いえいえ、素晴らしい事です。流石私が目を付けただけはあります、いやいや、憑けただけはあると言いましょうか。ああ謙遜はいけませんよ、運だとか奇跡だとか…持っての他、というよりも運や奇跡も実力の内です。私が憑いたからあなたは生きているわけではないのです、私が憑く前からあなたはそうなる運命だった、そうしてそんなあなただからこそ私はあなたに憑いたのです。…さて、傷の完治までは如何程に?」 「一ヶ月以上」 「一ヶ月!」 那緒美はどことを見ていない瞳をそのままに、さして驚いた風もなく驚いてみせた。 額の包帯をぺたぺたと触りながら、那緒美は捲くし立てる。 「一ヶ月!あなた今一ヶ月って仰いました?まあまあ、まあまあまあまあ何て事、何て事なの。人間は酷く儚い、そして脆いとは言いますが一ヶ月、包帯も巻かれて後は自宅療養なさいとはいかないのですね、まあまあ」 「………俺は」 「大丈夫、大丈夫ですよ。案ずる事も恐るる事もありません、入院生活はさぞ退屈でしょう、不満も募るでしょう、ですが安心して下さい。この私がいます、この私が付いています、いえいえ、この私が憑いているのです。不安などとは無縁です、断絶されたものです、不安のふの字も仰れ無いですよ」 那緒美は言い終え満足したのか、静かに息吐いた。それはまるで風前の灯を消すかのような弱々しいもの、儚いものだった。 ベッドに座ったまま、那緒美は先程まで自身が座っていた椅子に置かれている箱に手を伸ばした。 那緒美はあのような箱を持ってこの病室に入っただろうか?持っていたとして、いつの間にそこに置いたのだろうか。 そんな江崎の疑問もどこ吹く風、どこ吹く風の那緒美の膝丈のスカートをふわりと揺らめかせた。 「甘いものはお好きですか?」 「嫌いではない」 「ではお好きですか?」 「好きではない」 「ふむ、どちらつかずな方ですね。相変わらず変です。変わってます、異常です、奇妙です、不可思議です」 「ですが」 那緒美は手に取った箱を膝の上に乗せて、ぱか と蓋を開けた。 「嫌いではありません」 「……」 「さあさあ、イチゴ大福です、如何です?私は大好物なんです、私はお菓子が好きで好きで好きで好きで好きで堪りません。イチゴ大福も例外に洩れず大好きなのです」 開けた蓋、中からふわりと鼻腔を擽ったのは何よりもどれよりも甘ったるい匂いだった。 特に苦手でもなく、かといって好物でもない江崎は眉を顰める事も喜びに口を歪める事も無い。 ただただ那緒美の行動を目で追っていた。ただただ那緒美の温もりを己に掛けられた布団越しに感じていた。 「これは私からあなたへのお見舞いの品です。面会謝絶解禁祝いです、食べられますか?」 「…まだそういうものは食べちゃダメだと思う」 「誰かに言われたのですか?」 「言われてないけど…一般的に」 「おやおや、おやおやおやおやおやおや、一般的だなんて、一般的だなんて、何て愚かな、愚鈍な、愚拙な、暗愚な、愚昧な、無知な、痴鈍な、蒙昧な事を仰られる。一般的だなんて非一般的な事に囚われているようではまだまだです、まだまだまだまだまだまだです。世界は広く広大です、計り知れないほどに無限で夢幻なのです。間違っても一般的などとは仰らないで。そもそも一般の定義は何です?何人がソレを行えば一般的なのです?百人が殺人を行えばそれが一般的なのですか?一般的などとは人それぞれに定規が違うのです、規則が違うのです、法則が、規約が、規律が、ルールが違うのです。私の一般とあなたの一般が違うように、一般は一般ではありません。」 息つく間もない饒舌に、息は切れない。 那緒美は「分かりましたか?」と問う。 江崎は「分かった」と頷いた。 那緒美は満足そうに頷いて「では」と中のイチゴ大福に手を伸ばした。 「どうぞ」 そう言われて、江崎は動きの停止を余儀なくされる。 どうぞ、どうぞと言われて、どうすればいい。 細く白い指が、粉のまぶされたイチゴ大福を掴んで、ソレをこちらに差し出している。 さあと言われて江崎は固まる、どうぞと言われて江崎は困惑した。 あの時のように。あの時の『あの感情』のように。 『あの感情』 自分には絶対に得られないと思っていた 自分には絶対に訪れないと思っていた 自分には絶対絶対絶対絶対に 信じられないと思っていた 「…な、」 「おやおや、おやおやおやおやおやおや。戻ってきてしまいましたか。いやはや、戻ってきましたか、思考の国へ飛んでしまったとばっかり…これはこれは…一生の不覚、深く不覚」 那緒美は口の周りに白い粉を沢山付けていた。 手にも頬にも沢山の粉、そして小豆色の餡子を。 そしてそして箱の中身は……空っぽだった。 「えへ」 無表情のまま、那緒美は手をグーにして頭にコンとぶつけた。 こんな事もする子だったのかと江崎は思った。 「イチゴ大福は望んでいました、早く食べて欲しいと。早く早く食べて噛んで飲んで消化して昇華して欲しいと。私はその望みを叶えたまでです」 「うん」 「ですが…ですがまあ、申し訳ない事をしました。手ぶらのお見舞いはまずいと行きつけの和菓子屋でお勧めのイチゴ大福を買ったのに…折角のお見舞いを私が見舞うはずが、私が食してしまって…あなたに最大級の幸福を与えるはずが、私が得てしまった…ああ、幸せ…」 不覚…と那緒美は呟いた。 白い指先に付いた白い粉を、妙に赤い舌で舐め取りながら、呟いた。 呟いて、ハとしたようだった。 「この美味しさを知らない事は損です、可哀相です、哀れです、生きる価値なしです。この幸せは分けてあげるべきです、是非とも、是が非でも。…痛覚のないあなたも味覚ぐらいならあるのでしょう」 那緒美はそこまで言い尽して、ギシ とベッドのスプリングを軋ませた。 幼いながらに端正な顔立ちが、その中性的な、今は包帯やガーゼだらけの顔へと近づけられていく。 口付け。 凡そテレビで見、知識として覚え、試した事のあるソレは、今まで感じた事の無いものを江崎にもたらした。 何とも形容し難い、イチゴ大福のように甘く腹に居座るような、重いソレ。 薄く開いた唇から、チラチラと真っ赤な舌が見え隠れ、江崎と那緒美の間を行き来する。 那緒美がするように、江崎も勝手のきかない腕を伸ばして、那緒美の髪に触れた。 触れて、そのまま肩のラインをなぞって、腰を這って、ゆっくりゆっくりその形を確認するようになぞった。 「…お味は如何でした?」 ツ、と伝う銀の糸を、ぺろりと舐め取って、てらてらと光る己の唇を指で拭った。 江崎もソレを真似て、那緒美の形の良い唇に触れる。 「解らない」 「またそれですか」 那緒美は江崎の返答に呆れ、呆れたままなぞるその指をぱくんと口に含んだ。 「いへんとひゃふへふへ」 「……」 ちゅ と噛まずに指が離される。 那緒美は、動かないその手を自分のソレで包んで、江崎の口元へと運んだ。 「間接キスできますよ?」 さあさあと自分の指を眼前に差し出され、江崎は促されるままに口に含んだ。 少し濡れたような、ヒヤリとした己の指を銜えると、那緒美は満足したようで添えた手を放した。 「さてと」 那緒美は、ぴょんとベッドから降りた。 ついぞあった温もりが、一瞬にして消え失せる。 「な、」 「それではこれにて私は失礼します」 那緒美はぺこんと頭を下げる。 サラ と先程触れた髪が動きに添って揺れた。 「待って」 迷いも戸惑いもなくドアノブに手を掛け、立ち去ろうとするその後姿に声を掛けた。 掛けたは良いが、何故? 何故自分は声を掛けた? 「何ですか?」 ソレは自分が聞きたかった。 「離れ、たくない」 率直な感想、口から出た言葉、予想外。 いや、想定内? 「…ふむ」 那緒美は、くるんと体勢をこちらに変えて、またとことこと戻ってきた。 戻ってきて、手に手を重ねて、静かに放つ。 「明日もきます。それがあなたの望みならば、それがあなたの幸福ならば」 「………」 「江崎彰一さん?」 「嫌だなあ、と……思ったんだ」 「ええ、そうですか」 「解らない」 そう言って項垂れるように頭を俯けた江崎に、那緒美は絶望の瞳を瞬きさせた。 江崎彰一さん、江崎彰一さん、と呼ぶ。 「明日もきます」 上げた顔いっぱいに、少女の姿。 離れたくない、嫌だなあ と強く願うのみの思考は、先程少女がしたように、包帯ぐるぐる巻きの手で両頬を包むという行動を江崎に行わせた。 引き寄せるでもなく、押し付けるでもなく。触れるだけ。 ただただ、唇に触れた。 不思議と何かが満たされるようだったから。 不思議と何かを持っていかれるようだったから。 「じゃあ、また」 痛いの痛いの飛んでけー と長い髪に触れて、那緒美は部屋を出ていった。 出ていって、暫くして足音も消えて、江崎は、己の手を見つめた。 見つめて、銜えられたその指を、もう一度… |