何にも興味がなかった。

ありとあらゆるものに興味が持てなかった。

惹かれるという感情が分からなくて。

虚数

「トキ〜、そろそろ時間だよー」

「今いく」



階下から呼ばれる声に、曲識は部屋のドアを開けて答える。

その際するりと首から落ちたホワイトタイを拾い上げ、もう一度鏡の前で結び直す。


鏡に映る自分の目の色はどこか沈んでいる。



「……悪くない」



呪文のように呟き続けてきた言葉を今日も呟く。


背丈の小さな自分は、少し背伸びをし、鏡を覗きこんでいる。

緩やかに描かれたウェーブの髪の先を少し触り、寝癖を直す。


鏡台に置かれた楽譜を手に取り、部屋を出た。



こんな生活になってどのぐらい経つだろうか。

階段の段差を数えながら僅かな人生を顧みる。


ピアノに触れたのは、まだ自我が芽生えて間もない頃だ。

何にも感動を得られない自分と波長があったそれを、惰性のように今も続けている。



「…いけない」



ハッと思いだし、首を振る。

年不相応な思考はなるべく隠した方が良いねと長兄に言われたことを思い出したためである。

年相応がどうにも理解できないけれど、クラスメイトはこんなこと考えたりはしないだろうなと思った。


長兄はいつでも僕を気遣い、心配し、愛してくれている。

それに答えたくて従えば、そんな言いなりで楽しいかと二番目の兄に呆れとも軽蔑ともとれる目で聞かれたことがあった。

その横を、いつも無関心な弟が我関せずといった表情で通っていく。


僕には分からなかった。

有難さを感じることはあっても、愛を感じることはあっても、痛みを感じることはできても幸せだとか悲しさだとか、怒りだとか、そういったものがよく分からないでいた。


ピアノだって、弾いていればいつかその答えに辿り着けるんじゃないかと思ってやっている程度のものである。

波長が合うというよりも、合わせることができたというだけのこと。

それなのに神童だとか何だとか。


音符がきつきつに並べられた楽譜は、まるで息のしづらい誰かのように思えた。



「……いけない」



階段を下りきって首を振る。



「どうしたんだい?」



玄関にいた長兄が、僕の姿を目に止め心配そうに声を掛ける。



「具合でも悪いのかな」

「悪くない」

「そうかい?体調が思わしくないなら今日は公演を中止に…」

「…できるのか?」

「……難しいね」

「悪くない、行こう」



眼鏡の奥の瞳が申し訳なさそうに揺れるのを見て、僕はこれ以上困らせてはいけないと話を完結させた。


つやつやに光ったエナメルの皮靴に足を入れる。

指先から冷えていく思いに、僕は顔を俯けた。