洗脳は早いうちに。

その言葉がいかに的確なものか、私は身をもって知っている。



自分の一回りも二回りも大きなその手が、目の前に差し出されたのは随分と昔のことだった。

自我の芽生えた頃には既に帰る家も無く、その日その日を雨水と残飯で凌いでいた。

死にたいとは、思えなかった。



死の寸では、こんなにも息苦しくて、こんなにも気持ち良かったから。

生と死の狭間は、こんなにも辛くて、こんなにも心地よい。



家においでと自分の足が地につかなくなる感覚は、これが生まれて初めてだった。

もしかしたらもう記憶の消えた昔に抱きかかえられたことがあったかもしれないが、ともかく。

その人と同じ目線まで抱えられて、随分恐怖したのを覚えている。


その日から生活が一変した。

汚れにくすんだ肌は日陰に隠れる生活のせいかいくら洗っても青白いまま、どうしてか知れないが灰色に汚れを被った髪は綺麗に洗ったら真っ白だった。

一日三食の食事、暖かな風呂、柔らかなベッド。


人として当たり前の生活だと笑う旦那様がまるで神様のように見えた。

いないと思っていた神様は今自分の目の前で、息子が欲しかったんだと寂しげに笑いながら髪を撫でてくれた。

愛しげに、寂しげに、けれど慈しむように。


助けてあげたいと、思ったのはその頃からだった。

何か役に立てないかと、その日の稼ぎとしてやっていた玩具作りは大層喜ばれたし、どうしてか企業にも飛ぶように売れた。

ありがとうと喜ぶ顔は嬉しかったし、もっともっとを自分は、欲した。


欲し過ぎたのだろう、と。



今自分の目の前で苦痛に顔を歪める男を見遣りながら、思った。



「もう少し、厚く作らないといけないね、さて、どれほどで骨まで到達するか…もう暫く、耐えてくれ」



冷ややかな声はいつからだろう。この地下へ住むようになってから、冷え切ってしまったせいなのだろうか。分からない。


お前を誰にも見せたくないんだ、私の自慢の息子を…私だけのものにしておきたいとそう笑う旦那様の顔は、背中の太陽のせいでよく見えなかった。

私だけのものと自慢という言葉は、酷く自分を高揚させた。


どう足掻いても消せない自分と旦那様の距離は血の繋がりだ、どんなに家事をしてもどんなに凄いものを作っても、どうしたっても本物には、勝てないから。



自分と年があまり離れていない、息子がいると知ったのはまだ年延えもいかない頃だった。

深い青色が印象的な、中性的な少年だった。


見たのはたった一度きりだった、旦那様に呼ばれて行った部屋に、彼がいたのだ。

よく理解していなさそうなその瞳は自分に比べれば劣勢以外の何物でもなく…けれどそれは本物以外の何物でもなく…



「あああが、あああ」

「ああ、いや、失礼しました。考え事を、しておりました…ふむ、そうですね、あと二センチは厚くするべきでしょうか」



丸裸の電球に晒された寝台に寝かされた男、なのかももう分からない、大柄の人は、身動きの取れない体を必死で動かして、淵についている積雪の手を渾身の力を込めて、引っ掻いた。



「…もう暫くのご協力、感謝いたします」

「ぎゃああああ」



焼けるようにして痛んだその手の甲を一瞥し、積雪は手にしていたボードへと書き込みを再び始めた。


痛みは苦痛、苦痛は度を超すと快楽へと変わる、それを教えてくれたのも、旦那様だった。



初めは泣き叫ぶほどに痛くて苦しくて、もがいても足掻いても離してはくれない旦那様が、まるで鬼のように思えた。


入れるべきではない箇所、まだ未発達な体。

何かを欲するように自分を抱く旦那様が怖くて、どうしてか…愛しくて。


首輪を嵌められたあの日も、背中の皮がめくれるほどに付けられた傷も、いつしか愛しいものに思えるようにすら、なれた。

旦那様が、喜ぶので、あれば、とさえ。



キィ、とドアが開く音が後ろでした。

小さく零れた吐息、音の響く地下に足を踏み入れてきたのは小さな小さな足音だった。



「曲識様、ここへの立ち入りは、禁じられておりませんでしたか?」

「………」



震えるようなその声は、か細い歌のようで。

高いソプラノはあの日の自分のようだった。



「そちらは寒いでしょう、こちらへ、どうぞ」



振り向かずに独り言のように呟いて、寝台の端にスペースを作る。

傍の椅子に掛けられた毛布を引いて、寝台に行儀よく座った少年を包むようにしてかけた。



「私はまだ仕事が残っていますので、お相手はできませんが…」

「悪くない、僕が好きで入ってきたんだ、邪魔をする気はないよ」

「お優しいんですね、ありがとうございます」



お言葉に甘えと寝台に置いたボードを手に取った。

ころころと転がる鉛筆を取ろうと手を伸ばすと、寝台に仰向けに喘ぐ大男が小さな抵抗を見せた。



「ガ、アアアッ」

「やれやれ、せっかちな方は嫌われてしまいますよ」

「アアアア アッ」



つんざくような悲鳴。

少年は少し驚いた風に目を丸くした。


積雪は深く埋め込んだそれを抜き取って、傍らへと目を向けた。べとりとついた赤いものはここでは黒くくすんで見える。



「驚かせてしまい、申し訳ありません」

「悪くない、それより、何をしているんだ」

「実験、ですよ」

「…怪我を、」

「ええ、引っ掻かれてしまいました、いずれ治りますよ」



少年が毛布から伸ばした手は、自分とよく似て青白く不気味なソレだった。

棒のように細い腕が、考えられないような力で積雪の手を引いた。


ざらりとした温い感触。引き裂かれるような痛みが一瞬、手の甲を駆け巡った。



「舐めると良いと、てる子が言っていた」

「ありがとうございます、本当に、曲識様はお優しい」



本当に。

旦那様に似て、いたく、お優しい。



「もうお戻りください。こんなところにいたと知れたら、旦那様に叱られてしまいますよ」

「…お父様は、僕のことなど、どうでも良いように思える」

「そんな事を言ってはいけませんよ、私の命の恩人でもあります」

「……また、来ても良いか?」

「…こっそり、いらして下さいね」



こくんと頷いて、深い青色は冷たい廊下をゆっくりと歩いていった。

重い扉を閉めて、一つ息を吐く。



「美しく、成長されていらっしゃいますよね、誘惑されてしまいそうで、参りました」



積雪は、寝台まで戻り、静かに笑った。



「意志を曲げようとしない瞳は、旦那様そっくりです」



曲げて、物事の道理を知るのか…それともおもしろみで見識をなさるのか…



「私には関係のないことですけれどね、さあ、続きを、始めましょう」



旦那様のために捧げる終わりの見えない人生を。



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