30分と15秒経過した。



「うっ、ひぐっ、うっ、ううぅ」



少女は一向に泣き止まない。

理解不能

曲識は、堪り兼ねた。

30分と30秒、無駄に過ごした時間。

これ以上、無駄に過ごしたくなかった。


斜め読みしていた教科書を閉じて、口を開けた。



「おい」



温度のない、冷たい声で発せられた声は、小さく途切れそうな、けれど決して途切れない嗚咽に掻き消された。


紫木一姫といった。

少女は、天真爛漫、無邪気な笑みをこちらに向けた。


そして、何事もなく、それが正しいと信じて疑わず、少女は迷いなくスラスラとしていた。


少女は「下底教師」と書いた。

少女は「一挙一動二府四十三県」と言った。

少女は「甘辛牡丹餅」と認識していた。


あんまりにもあんまり過ぎる出来に、曲識が下した、少女の価値。



「君はダメだな」



一姫は、キョトンとしてから、初めて困ったような顔を見せた。



「ひ、姫ちゃんは…だめ、ですか?」



まるで世界にいる事を赦されていないのかと問われたようだった。



家庭教師暗黙のルール、五十二条

決して貶してはいけない



けれど、曲識は、曲識にはどうしようもなかった。

この少女は、ダメだ。

ダメなものはダメだ、努力が報われない、これが才能だから。


不可能と言う、才能。



「ひ、姫ちゃんは…」



何を言おうとしたのか、少女はこの後口噤んで、曲識の顔を見上げてから、ボロボロと涙を零し始めた。

そうして32分10秒経過。



「いい加減泣き止んでくれないか?」



少女は返答しない、嗚咽が耳障りだった。



「こんな問題すら解けない君が、ダメじゃないはず、ないだろう」



追い討ちを掛けているつもりはない、真実だ。

一姫は、嗚咽に小さな喘ぎを交えて、小さく「姫ちゃんは」と呟いた。



「姫ちゃんは…っ………トキさん、の…ぶ、まで…っ、涙を、零してる、ですっ」



今の今まで、部屋の角でこちらに背を向け蹲るように泣きじゃくっていた少女が、やけにハッキリと零した。


トキさんの、分まで?



「言ってる意味が、分からないな」

「トキさんは…泣けない、ですね」

「……」

「姫ちゃんと、トキさんは、同じです…」



涙を流し過ぎて、どこか、おかしくなってしまったのだろうか。

いや、少女は元からおかしかった。もう修正の利かないところまでおかしくなっていた。


ならば、理解できなくて当然?



「同じなわけないだろう」

「同じです!…でも、トキさんは…泣けないから…代わりに…姫ちゃんが…泣、て…るんです」



理解できなくて当然ならば、理解する必要はない。

だが、任されたものを放り出すわけにもいかない。



「紫木、一姫」

「何ですか」

「ここ座れ、授業を再開させる」

「いやです」



椅子を指差し、閉じた教科書を開いて、端に放られたシャープペンシルをノートの上に置いた。

一姫は、首振って、また蹲ってしまう。


曲識は、特に表情を変えず、席を立ち上がり、一姫の隣に立った。

立って、あまりの少女の小ささに呆れながら、膝を曲げて、しゃがんだ。



「戻れ」

「いやです」

「…じゃあノートと教科書、持ってくるからここで」

「いやです」



少女は、首振り首振り、涙は相変わらず零れ続けている。

このままいくと、この少女の体内の水分が全部枯れ果ててしまうのではないか、と思わせるほどに。

ボロボロ、ボロボロボロ



「…紫木一姫」

「痛い、です」

「どうしたら授業を再開させる」



その白い手が、小さな頭を掴む。

力任せにいけば、もぎ取れてしまうような、小さな頭。



「トキさんが」



一姫は目を擦り擦り、頭を掴まれたまま、曲識の方を向いた。



「その顔を、やめたら」



少女は、そう言って、また悲しそうに涙を流した。

曲識は暫く身動きせずに少女を見遣り、それから頭を掴んでいた手をどけて、ボロボロ零れる涙を一つ、掬った。