右も左も、上も下もない真っ暗な空間の中に、その少年はいた。

身の丈まだ自分の半分程度の小柄な少年は、暗闇に紛れて嗚咽を漏らしていた。

随分長いこと泣いているのか、噛み締めた唇から耐え切れず零れる声は、掠れていて、痛々しささえ感じてしまう。



「きみは――」



声を掛けてはいけない気がしたのに、喉からするりと出てしまった言葉。

その声に少年が反応する。真っ暗な闇の中、小さく物が動く音がした。


振り返る。


自分の手も足元も、自分の目の先にいる少年も、暗闇の中に見えるはずはないのに、どうしてか視界は少年の髪の先から足の爪の先までを捉えていた。


振り返る、少年。



「   」



掠れた声は、私の耳には届かなかった。


振り返った顔は、いやに白い。血の気の感じられない、真っ青な白。

少年は、泣き腫らした目をしていた。

腫れぼったい瞼、擦った目元は赤くなっていて、泣き過ぎたせいなのか、

瞳の色さえも、赤い血の色をしていた。



「   」



少年が口を開く。とそこで、ぐらりと地面が揺れた。

いや、視界が揺れたのだろうか、つまりは脳が。


揺れる、揺れる。

意識が混濁。

暗闇が歪む、歪む。

少年が…見当違いのところへ目を動かす少年が、歪む、歪む。



「お兄ちゃん!」



眩しい。

暗闇に慣れた瞳が、急に掛かった光に眩暈を起こす。



「お兄ちゃん」



二度。

呼ばれて、ああ、自分のことだったかなと意識が浮上する。



「やっと起きましたかー?珍しくお寝坊さんですねえ」

「…伊織ちゃん…?」

「んん?どうしました?まだ寝ぼけてますか?」



ふふふと自分とよく似た笑いを零す少女。

カーテン開けますねと向けた小さな背中、差し込む光りに栗色の髪が淡く輝く。



「うなされてましたね、悪い夢でも見てましたか?」

「…そうだね、良い夢ではなかった…かもしれないね」



のそりと体を起こせば嫌な汗が額を伝った。しっとりと濡れた背中が、かいた汗の量を物語るかのように冷たくなっている。

カーテンを開けた舞織は、ぱたぱたと動物の顔が描かれたスリッパを響かせながらベッドの端へと腰掛けた。



「悪い夢見は人に話すが吉ですよ……どんな夢だったか聞いても良いですか?」

「…うーん…話しても良いんだけど、伊織ちゃんが嫌な思いをしてしまいそうで嫌だなあ」

「そういった心配でしたら無用ですよお兄ちゃん、わたしはそんなに脆くありません」



一緒に大船に乗ってもらえませんか?と舞織が手を差し出す。

そう伸ばされた手、笑顔が眩しくて思わず目を細めた。自分にとっては、眩し過ぎる存在。



「伊織ちゃん」

「はい?、う、わぶっ!」



その手を掴んだ、グイと引き寄せれば簡単に腕に納まる小さな体。

小さな細い腕は、まるであの少年のように骨と皮のような脆さで、けれどまるで違う、柔らかくて暖かくて。

この違いはなんだろう、どこなのだろうか…

きっとあの少年の腕は、足も顔もどこもかしこも、細くて、冷たいのだろう――



「…お兄ちゃん?」

「ああ、ごめん、ね、ちょっとまだ混乱しているのかも知れないね、顔を洗って目を覚ましてくるから…食事の用意をしておいてくれるかな?」



もぞもぞと動く小さな体を離し、ベッドから降りる。

ああもう全身汗をかいているのだろうか、どこもかしこもしっとりと冷たく不快だった。


冷たくて…不快…

あの少年のような、あの少年のような自分、冷えた体、虚な赤い瞳、暗い場所―――



「お兄ちゃん、本当に大丈夫ですか?」

「ああ、ごめんね、驚かせちゃって。大丈夫だよ、本当に」



大丈夫、大丈夫だ。大丈夫なんだ。このまま黙って大人しくしていれば…いつかきっと――

だから、大丈夫。

そう言って、少年は、身を守るように頭を抱えた。



「お兄ちゃん」



ドアノブにかけた手、無機質な金属が、ひやりと冷たかった。

少年は金属でできているのだろうか…


そう考えていると、とん…と背中に温もりがぶつかってきた。

何だろうとぼんやりした意識で目を下に落とせば、自分の腹に回っている腕が二つ、あった。



「伊織ちゃ…」

「お兄ちゃん、今日、何か用事はありますか?」

「え?」



唐突な話題に首を振り向けて下を見遣れば、見上げた顔がにこりと笑った。



「何もないようですね」

「あ、ああ、ない、けれど…」

「じゃあ今日はわたしに付き合ってもらえますか?」



良いですか?と見つめる瞳に、良いけれどと曖昧な返事を返せば、舞織はありがとうございますと微笑んだ。

ぐい、と手を引かれる。



「ではまずベッドに座ってください」

「え?」

「わたしに付き合ってくれるんでしょう?まずは座ってくださいよう」

「う、うん」



ほらほら座ってと舞織に手を引かれるまま、ベッドの端に、先程舞織が据わっていた場所に腰を下ろす。

何をするんだい?とちょうど同じ目線の高さになった舞織を見遣ると、ふふと悪戯っぽい笑みをかまされる。


じゃあ失礼しますようと、そう言って、舞織は双識の足の間へと腰を下ろした。



「伊織ちゃん?」

「何ぼさっとしてるんですか、ほうらほうら、手はこっちですよう」

「あ、あの私いま汗かいちゃってるし…」

「言うこと聞いて下さい」

「……はい」



びしりと言われて、双識はゆっくりと引っ張られるままに腕を舞織の前で交差させる。

ぎゅうと抱き締めることもできず、舞織から少し浮かせて腕を回せば、仕方ない人ですねと前で溜息が吐かれた。

ぽすんと背中に寄り掛かられて、浮いた腕をぐいと引かれる。



「ぎゅーっと抱き締めて下さい」

「…」

「お兄ちゃん」

「分かった、分かったよ」



根負け。

肩を竦めて降参する、言われる通りにぎゅうと抱き締めた。


途端に広がった温もり、冷たい雪の中にあった手を、温かな暖にかざした時のような、ジワリと痺れるような温もりが体に広がっていく。



「……」

「お兄ちゃん…わたしはお兄ちゃんのために何もしてあげられませんが、こうやって傍にいてあげることぐらいはできます」

「何もできないなんてそんなことは――」

「何かできるとしてもお兄ちゃんがわたしを気遣ってさせてくれないので、できないも同じですよ、でも――」

「…」

「でもこうやって傍にいることはできます、忘れないでください」



ね?

そういう瞳は、寂しげに揺れていた。

少年の絶望に見えた寂しさに似た色で揺れていた。



「……あったかいね、伊織ちゃんは」

「人間ですからね」

「……そうだね…」



人は温かい。体が…心が、温かい。

心を知っているから、相手を知っているから、温かくなれるのかもしれない。


少年は、人を知らない。心を知らない、のだ。


ありがとう、そう二度呟いて、目を閉じる。

頼りな下げな小さな肩にそっと預けた額、優しい温もりに、目頭が熱くなった。



「お兄ちゃん!」



頭の上から声が降ってきた。



「……あれ?」

「お兄ちゃん」



二度。

呼ばれて、ああ、自分のことだったかなと意識が浮上する。



「やっと起きましたかー?珍しくお寝坊さんですねえ」

「…伊織ちゃん…?」

「んん?どうしました?まだ寝ぼけてますか?」



ふふふと自分とよく似た笑いを零す少女。

カーテン開けますねと向けた小さな背中、差し込む光りに栗色の髪が淡く輝く。



おかしい、な。

夢から覚めた、と思っていたのだけれど、まだ夢の中だったのだろうか。


開けた瞳の先に広がっていたのは舞織の肩でもなければ、抱いた小さな体でもなかった。

真っ白な天井と、そこから覗く舞織の顔だった。



「うなされてましたね、悪い夢でも見てましたか?」

「………」



悪い夢、だったのだろうか。



「…いや」



首を振って、ゆっくり体を起こす。


カーテンを開けた舞織がぱたぱたと動物の顔が描かれたスリッパを響かせながら、ベッドの端に腰を掛けた。



「良い夢、だったよ」

「そうですか?」

「うん……ありがとう、伊織ちゃん」

「へ?」



キョトンとする舞織に、ふふと笑いかける。



「さて!ご飯の支度でもしようかな、もうお昼なんだね、何が良いかなあ」

「え、ちょ、お兄ちゃん?意味が分からないんですけど…ああもう待ってくださいよう」



すっくと立ち上がった双識を見上げる舞織の髪をそっと撫でて、それから歩き出す。

そっと伸ばしたドアノブ、触れた金属が、意外な事に温かかった。



「?何笑ってるんですか?」

「ん?いや、何でもないよ」



慌てて追ってきた舞織を先に出して、双識は、そっとドアを閉めた。

金属は握れば温まる