「好きです…!」

砂上の楼閣

まず最初に思った事は、真昼間から大胆だなぁ という間の抜けた第三者としての感想だった。

それから、何て絶妙なタイミングなんだろう と。


偶然掃除当番をサボって、偶然友人が自転車で途中まで乗せてくれて、偶然信号が青で

偶然、わたしは彼の妹だった。



「…お兄ちゃ、ん…?」



真冬こそアイスの醍醐味。

ひやりと冷たい感触を舌で楽しみながら、歩く帰り道。

鞄は軽い、足取りも軽い、なんていったって今日はすき焼きなのだから。



そうして長い長い影は自分の前にできていた。

それも偶然。


女性と双識は、舞織には気付いていないようだった。

いや、気付いていながらも無視されていたのかも知れないけれど。



「ま、毎日、ここを通っていますよね?」



女性が口を開いた。

年はわたしより少し上、大学生ぐらいだろうか。


淡いピンクの口紅が頬の色とがよく似ている。



「貴方も、毎日ここを通っていますね」

「…通勤道、ですから」



ああ、違った。

社会人なんだ。


ガサ と双識は手に持っていたビニール袋を持ち直した。


ああ、どうして今日は一人なんだろう。

いつもなら軋識さんや、人識くんと一緒に…

そうか、これも偶然。


彼女にとっては嬉しい偶然、一人だからこそ声を掛けた。



「こんな…見ず知らずに告白されて、気味が悪い…ですよね…」

「まさか、貴方みたいなお美しい方に告白されて喜ばない男はいないんじゃないかな?」

「……そ、そうですか」



口紅よりも赤く、頬が高潮していく。

俯いて影を作った長い睫毛は、微かに震えていた。


いつもの社交辞令、そんな事、思ってもいないくせに気を持たせるお兄ちゃんの悪い癖。

そんな事、分かっているのに…分かっているのに、今日はそうは思えない。



ああ、気持ちが悪い。



「じゃあ、私とお付き合い、して頂けませんか…?」



手が冷たい。

アイスが溶けて垂れてきたのかな。


どろどろ と。


ああ、気持ちが悪い。



「…うーん…そうだねぇ…」



双識は困った風に溜息を吐く。



「…っ」



舞織は口を開き掛けて、そのまま制止した。

何て声を掛けるつもりなのだろう…


妹が兄の邪魔する権利が果たしてあるのだろうか


一人よがりなこの思いを、誰にも知られていないこの思いを

彼女のように全てを投げ打って告げてもいないこのわたしにそんな権利が…



「……」



ああ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

気持ちが悪くなる。



早く断ってしまえば良い

どうしてそんな気を持たせるような曖昧な



「あれ、伊織ちゃん?」



ふと、間の抜けた声が聞こえた。



「――っ!」

「今帰り?それなら一緒に帰ろうか」



下げていた顔を勢いよく上げれば、双識がこちらに向けて手を振っている。

長く伸びた影はいつの間にか、双識の方にまで侵食していた。


というか、今何て…?



「「…え、?」」



声が被った。

双識の向かいにいる女性が驚愕の表情を見せていた。



「ね?」



ソレにも構わず、双識は最早舞織以外見えていないとも言える風に微笑んだ。


ああ、どうしてだろう。

すごく、泣きたい。



「い、やです」

「え?」

「わたし……、いやです」

「…どうしてだい?」

「お兄ちゃんとは、…帰りたくない…!」



そう吐き捨てて、元来た道を走った。

走って走って、気持ち悪さがどんどんと増えていく。


何に?どうして?


わたしのどろどろとした感情にだろうか

お兄ちゃんの残酷さにだろうか


分からない

ああ、吐きたい。



「ゲホッ、ゲホッ」



カンカンカンカンカンカンカン…

踏み切りの音が聞こえてきた。


家とも学校とも反対の、てんで反対の場所へと走ってきてしまったらしい。

よく知る場所だから帰るには困らない。

けれど、今日は帰りたくなかった、すき焼きだろうと帰りたくなかった。



「ゴホッ」



走り過ぎて喉が、心臓が痛い。



「大丈夫かい?」

「っ!?」



ふと背中を擦られて、思わず振り返る。



「伊織ちゃんは走るのが速いんだねぇ、お兄ちゃん久しぶりに全速力しちゃった」



という割りに、双識は舞織のように息切れていないし、汗をかくどころか清々しそうに暑苦しそうにスーツは乱れていない。


双識は笑う。



「でも今日はすき焼きは諦めなくちゃね」



そう言って双識は手に持っていた袋を掲げてみせた。


暗がりにも分かるほど、中は黄色くなっていた。

どうやら卵が割れたらしい。


そこでハッとして、舞織は双識の手を叩き退けた。



「そんな事は…どうだって、良いんです」

「そう?」



ああ、どうして

どうして



「一緒に帰ろう?」

「あの人は」

「ちゃあんとお断りしてきたよ」

「どうして」

「?どうしてって、私には伊織ちゃんがいるし」



そうやってまた残酷な事を



「…言うの」

「え?」

「お兄ちゃんは、ひどい」



涙が、滲む

世界が、歪む



「お兄ちゃんは、ひどい」

「どうして」

「わたしの気持ちも知らないで」

「知らないって、誰が」

「いつもいつも、わたしに気を持たせて」

「私が?君に?」

「だったら、最初から」

「冷たくしてくれた方が良かった?」

「――――っうぅ…」



双識は、まるで何事もなかったかのように舞織の手を引く。

舞織は首を振って拒否を示す、足を地に張らせて抵抗した。



「ちゃんと、帰ってから話そう」

「話すことなんて」

「私にはある」

「わたしはないです」



最後の方は、声になってなかった気がする。

掠れて震えて弱々しくて…


これはずるい。

泣いてはいけないのに…


涙は負けだ、涙は卑怯だ、相手を困らせるだけなのに。

お兄ちゃんを困らせたくなんて、ないのに


ぽたぽた と音がした。

地面が濡れる、靴に水滴が落ちる。


ああ、苦しい。



「ふ、ぇ…っ」

「伊織」



そうやって名を呼ぶのは何か特別な事があった時だった。

叱られる時とか、真剣な話をする時とか。


舞織は、零れる涙を隠すように手で顔を覆った。

変わらず、片方の手は握られたままで、両の手で隠すことは叶わなかったけれど。



「誰が、叶わないと決めた」



一瞬、心を見透かされたのかと思って、ドキリと心臓が跳ねた。

思わず顔を上げれば、声とは裏腹に優しそうな笑顔。

ほら、そうやってまた



「言ってみなさい、伊織」

「……お母さんみたいな事言わないで下さい」

「いーおーりーちゃーんー?」

「い、いひゃい」



言える訳がない。

妹が兄に恋心だなんて、今時流行らない。


茶化すように、誤魔化すように、口を尖らせて、顔を背けて

小さな抵抗は、双識が伊織の両頬を抓る事によって窘められる。


けれど、言えるはずがないんだよ。

わたしが、貴方の事を…だなんて



「…もういい、分かった」

「え?」

「私の勘違いでも、伊織ちゃんに怒る権利はもうないからね」

「?、え?」



見捨てられるのかと思った。

思って縋るように手を伸ばせば、それを避けて


避けて、未だ頬を抓ったままの手が、包むように形を変えて、強引なほどの力で



「…っん、むっ」



身長差があり過ぎる。

双識は思い切り屈んだし、舞織は思い切り背伸びをさせられた。


初めてのキスは、何味どころではなかった。

首が痛くて、足が痛くて、おまけに頬も痛い。



涙が、溢れる。



「…ちょっと、色気が足りないね」

「………お兄ちゃんが突然するから…」

「…ふむ、一理あるね。それで…どう?私の思うところで合ってたかな?」



そう問われて、小さく俯く。

伊織ちゃーん? と呼び掛けられて、舞織は決意したように顔を上げた。





「…わかんないです」

「え?」

「一瞬だったので分からなかったです」

「……あのねぇ…」

「だからもう一回」

「…」

「もう一回したら、分かるから…」

「…そんなお強請り、どこで覚えてきたの」

「ふふ」



そうやってまた、お兄ちゃんは泣きたくなるぐらい優しくわたしを幸せにした。




5000HITリクです、ありがとうございました。