「ただいまー…って、何、この匂い」



買い物袋を提げて主夫さながらに帰宅した双識を出迎えたのは、嗅いだ事のない強烈な臭い。

とても不快になるこの臭いに、眉を寄せ

におい

買い物袋の中身を冷蔵庫へ仕舞い、臭いの元、舞織の部屋へと足を踏み入れ…るところで足を止めた。



「…伊織ちゃーん?」



部屋の主、伊織はいない。

人識と軋識の気配も無く、双識は首を傾げた。



「…隠れんぼでもしているのかな?」



うふふ と呑気な事を呟きつつ、リビングへ戻る途中、ガチャリ と風呂場のドアが開いた。



「おっ、お兄ちゃん!」

「伊織ちゃん、ただいま」

「お帰りなさい!」



酷く焦った風の舞織の様子をさして気に止めるでもなく、双識はリビングへと入って行く。



「………臭い…消えたのかな?」



くん と自分のパジャマに鼻を寄せてみるが、イマイチ分からない。

ドクンドクン と鳴る心臓を押さえつつ、双識の後を追った。


* * *


「さて、伊織ちゃんにちょっとした質問なのだけれど。」

「なんれふかー?」



それから何の滞りも無く。

いつものように、双識は夕ご飯の支度を始め、舞織はソレを手伝い。


何の滞りも無く。

夕飯の時間を向かえ、スパゲッティを啜っている時だった。



「この家全体を覆う悪臭は何なのかな?」

「――――ッッゲホッ、ゴホッ、ゲホゲホッ!!!」

「大丈夫?…水、いる?」



安心し切って、寧ろその事自体を忘れかけていた舞織に、その質問は大打撃だった。


鼻からスパゲッティ出すかと思った…。


そんな事を思いながら、舞織は差し出された水を飲み干した。

それほどに大打撃だった。



「大丈夫?」

「…なんとか…」

「それで?この不快で不愉快で嫌悪感しか生まれない悪臭は何なのかな?伊織ちゃんからも微かにするね」



ドクンドクン

心臓が跳ねる。


涙も溢れた。

言葉も溢れ出すのに、喉元で詰まった。





「…っやだよお」





やっと出た言葉は、あまりにも拙い。



「―――っどうしたんだい?」

「おにいちゃっ、嫌わな、で…っ…やだあ…!」



漸く溢れ出た言葉はとどまる事を知らない。

およそ高校生とはかけ離れた稚拙な言葉に、双識は動揺を隠せない。


舞織は椅子から立って、双識に縋るように、消えるのを阻止するかのように、服を握り込んだ。



「伊織ちゃん、落ち着いて!」

「おっ、お兄ちゃ…っ、双識さん、やだよ、お!!嫌だあ!!」



双識は落ち着くよう促すが舞織は聞こうとしない。


ただひたすら、服を握り締めて、指先が白くなるほどの力で握り締めて。

嫌だ嫌だと首を振った。


一旦取り乱すと、どうにもこうにもならない妹に、小さく溜息を零して。


椅子を降りて、舞織と同じ目線になるよう、双識はしゃがんだ。

それからしっかりと肩を握り込む。



「舞織」

「…っ……」



久しぶりに紡がれた自分の名に、それ以前の声の大きさに呼び方に、舞織は、びくり と肩を竦ませた。



「舞織。私は君を嫌わない。傍にいる。だから、落ち着くんだ」

「………は、い…」



ぐずぐずと鼻を啜り、頷く舞織に、静かに肩を撫で下ろして。

抱き締めて、あやすように肩を撫でた。


暫くして、自分の背に、遠慮がちに細い腕が回った。


* * *


「…で、誰の臭いなの?」

「…分からないです」

「心当たりも」

「ないです。人識くんも軋識さんもこの臭いが嫌だって家を出て行っちゃって…双識さんも出て行ったらって…怖くて…お風呂入って…わたし…」

「ああ、それで」



それで人識も軋識もいないのか。

それで風呂から出てきたのか。



妹の、愛しさに、愛らしさに、健気さに、熱が疼いた。



「伊織ちゃん」

「うん?」

「久しぶりに、気持ち良い事しようか」



ふわり と額を合わせて、嫌とは言わせない微笑を作れば。

舞織は戸惑いの色を見せる。



「……一回、だけなら…」

「うんと気持ち良くしてあげるよ」

「う、うなー」



渋々と出た承諾の言葉に、双識は笑みを深めて舞織を抱き上げた。