にっきろぐぐぐ
その人にとっての僕の存在が果たして特別じゃなかったとしても、僕にとっての貴方という存在は、何にも代え難いものなんです。

終礼のチャイムが鳴り響いて、僕はハッと目を覚ました。
うたたねをしてしまっていたらしい。教壇に立っていた先生は黒板を消し始めていて、机に向かっていた同級生たちは帰り支度を始めていた。
「ふあ」
手で隠して大きな欠伸。崩子が見たらだらしないと蔑むだろうか、それとも一緒に欠伸をしてくれるだろうか。
帰りの寄り道を相談したり部活へ走り出す男子やまだクラスに残る気満々で喋くっている女子を遠目に ―何せ窓際、一番端の一番後ろの席なので― 僕はゆっくり伸びをして、机の脇の鞄を手に取った。
家に帰ってもう一度寝たい…そんなことを思いながら、机の中の教科書やらを鞄に詰め込んでいく。
「あ、あの」
気配は、していた。五時間目が始まる前から…もっと言えば、今日、起きてからずっと。
何にでも敏感なのも考えものだなあと思いながら、僕は顔を上げた。
そこには、クラスの女子数名。話しかけてきたのは…内気なグループに位置していたはず、内気な少女。
「なに、僕?」
面倒だな、と思いながらも、平穏無事な学校生活のため、笑顔を浮かべて、その少女を見上げた。
その子は、面白いほど、顔を赤くした。
「う、うん、…石凪くん…ちょっと…良いかな」
「…良いけど…帰り仕度するから、ちょっと待っててもらっていいかな」
「うん!じゃ、じゃああの、渡り廊下のところで…待ってるね」
「分かった」
女の子は僕の返事を聞いてから、その数名の女子と一緒にきゃあきゃあ何か叫びながら廊下へと走って行った。
何だろうなあ、渡り廊下って…あの人気の少ないところだよなあ。
何かされるんだろうか…とか何とか、そんなことを考えながら、僕は教室を出た。
教室を出る僕に、ばいばい、という者はいない。僕に話しかける人なんて…そういない。いるけれど、それは何かがあって、何もなく話しかける人なんていない、いないんだ。
「お待たせ」
「う、ううん!いいの!こっちこそ…ごめんね、帰るところ、邪魔しちゃって」
「別に良いよ、気にしないで、それで…なに?」
色んな教室を通り抜けて、外に位置するこの渡り廊下を進むと、専門図書や古書、古い文献や教材なんか、使われなくなったものや重要なものが置き場になっている倉庫みたいなところに行きつく。
先生でもあまり使わないため、ほとんど人は来ない。
屋根のついた下をコンクリートが縦長に倉庫へと続いていって、脇には雨避けか何なのか塀が設けられている。塀の切れ目には、むしってもむしっても生えてくる雑草が今日も風に揺れていた。
ちなみにここは通り抜けできるようになっていて、右に進めば校庭が、左に進めば庭の先に裏門が待っている。
更に言うと門を抜けて狭い道路を渡った先には、とある機関が経営するバカでかい付属の大学が建っているし、右手校庭脇にある広場の奥の正門、道路を挟んだ向かいにも付属の女子校が建っている。
おかしなことだが、ここら一帯には、学校が密集している。
小さな女の子から大きなお姉さんまで通う女子校と、小さな子から大きな人まで選りすぐりのエリートや変わり者が通う学園と、ちょっとした異端者や並々な子達が通う学校の、計三つが同じ区域に存在している。
それもあって毎日朝と夕方には様々な制服が行き交いするし、上下左右関係なく出会いや別れも多く、また校内に堂々と遊びにくることもある。授業に見知らぬ顔がいることだってままあるぐらいだ。
それは一重に、それぞれのトップの親交の深さ、許容の広さ、校則の緩さにあるだろう。
勿論、それぞれの学校に問題児も多く、ちょっとした惨劇だってたまにはあるけれど、中々どうしてうまく生活しているのだった。
それはさておき。
僕はその渡り廊下の塀に寄り掛かっていた体を起こし、その少女に近づいた。
「具合でも悪いの?」
「えっ!?」
「顔赤いから…熱でもあるのかなと思って。保健室行く?」
向かいの女の子は黙りこくったまま動かない。
僕に声を掛けられたところで、我に返ったように体を竦めた。
それから精一杯首を振った。
「ううん!平気!ご、ごめんね」
「だから良いって、気にしないでよ。それで…用事って…なに?」
「うん、あ、あのね」
やけに深刻そうな。相談事だろうか。
ふと、自分の本職を思い出し、誰か危篤の人でもいるのだろうかと首を傾げる。
と思ったところで、この子の周りにそれらしいものは見えない事に気付く。
僕に相談事なんて、珍しいな。と、ぼうっとした頭で考える。
そして、そうだったなら乗って上げようと思う僕も、とても珍しい、ことだ。
最近、は、ずっとそうだった。
何かしたくて堪らなかった、したくて、してあげたくて、笑ってほしくて喜んでほしくて幸せになってほしくて…
人の役に立ちたい幸せになってほしいだなんて僕にして地球が滅亡してしまうのでは!?なんて勢いの不思議な感情。
何て言うか…
「どいてくださいいいいいいいい!!」
そう…――――
「…っ!!」
「姫ちゃんがそこ通るですようううう!!」
「きゃっ」
黄色の大きなリボン、揺れる愛らしく青いセーラー服、肩にポシェットを下げて、右手の庭から全力疾走してくる小さな女の子。
その子は、僕の向かいにいる女の子を突き飛ばした。…というよりも止まれなかったらしい、突撃して、吹っ飛んだ。
「大丈夫!?」
女の子が吹っ飛ぶのを目で追いながら、向かいで体勢を崩した少女の腕を取って、転ばないよう、引き上げる。
それからすかさず、庭先に落ちるその子の元へ飛び込むように走りだして、ぎりぎりのところでその小さな体をキャッチした。
「うぶうっ!」
「……は、はあ…はあ」
自分でも、こんな動きができるなんて思わなかった。
と言っても、向かいにいた女の子は、強く引っ張り過ぎてしまったせいか、結局地べたに手と膝をついてしまっていた。
けれど
「あ、あの」
「…うううう、い、生きてますか姫ちゃん…」
「は、はい…あの」
「はっ!!い、今何時でせうか石凪くん!!」
「ッ!!」
「良い時計してますね!ちょっと尊敬!!」
腕の中にいたまま僕の片腕を無理矢理自分の方へと引いて、時刻を確認する女の子。
それは失敬のつもりですか、とか、腕時計、してるじゃないですか、とか…言いたいことは色々あったのだけれど…けれど…
「三時半の二分前…まだ間に合うですね!」
「あ、あの」
「ありがとうございました!!それからぶつかっちゃってごめんなさい!」
「あの!」
「姫ちゃん急いでますのでこれにて!!」
「っ、気をつけて…!ください!」
「ありがとですー!!」
話をまるで聞かない女の子は、最後の僕の言葉にだけは反応して、わざわざくるりとこちらを向いて手を振ってくれた。
それからすぐさま転んだのは言うまでもないけれど。
小さな後ろ姿が裏門に消えて行っても、ドクンドクン と、まだ心臓が騒いでいる。
手の中にあった温かさと、腕に残る感触と、鼓膜を揺さぶったその―――
「あ、あの石凪くん…?」
「あ、ああ…ごめんね、大丈夫だった?」
「うん、すごい、ね、さっきの…」
「そうかな、すごいのは…ひ…紫木先輩だよ」
「澄百合の…高等部の人だよね、知り合いなの?」
「うん、以前体育祭であったことがあるんだ」
「へえ」
「その時の先輩ったらね、小さな体で大きなきぐるみ着てて…仮装競争だったんだけど、走る姿が可愛くて…」
「そ、う…なんだ」
「それで、何だっけ、何か…相談事だった?」
饒舌になっているのを感じながら、心の中でドキドキ言うのを聞きながら、少女を見やる。
ああ、やっぱり顔色が悪いな、保健室で相談を聞いた方が良いかななんて思った。
最近、は、ずっとそうだった。
何かしたくて堪らなかった、したくて、してあげたくて、笑ってほしくて喜んでほしくて幸せになってほしくて… 人の役に立ちたい、幸せになってほしい、だなんて僕にしては珍しい、地球でも滅亡してしまうのかっていうぐらいの不思議な感情。
何て言うか…
そう…――――
「ううん、やっぱり…いいや」
「そう?ねえ、具合悪そうだよ、保健室行こう?」
僕は、恋をしている。
たった一度二度話しただけの人に、あの女子高に通う可愛らしい先輩に。
会えたことが嬉しくて、名前を覚えててもらえてた事がこんなにも嬉しくて、触れたことが堪らなく嬉しくて。
だから僕は、何かしたくて堪らなかった。
幸せを分けるとでもいうのだろうか、僕が幸せだから溢れる幸せを誰かに感じてほしかった。
だから僕は、こんなにも優しくなれた。学校の時はうそのように…
「い、いいの…一人で、いけるよ」
「でも」
「ホント!大丈夫だから!!」
「うん…じゃあ…また明日ね」
「う、ん…」
覚束無い足取りで僕の脇をすり抜けて、校舎へと入っていく姿を見送りながら、やっぱりついて行こうかと体を動かしたところで、その女の子の周りを女子が囲み、歩いていくのが目に入った。
あれだけいれば、大丈夫かな。
僕はうんと頷いて、あらかじめ履いておいた靴でそのまま左手へ歩き始める。
帰ったら寝るのはやめにして、明日の予習でもしようか。
僕は鼻歌でも歌い出しそうな勢いで、スキップでもせんばかりの軽い足取りで、歩く。

萌太は、残酷です

ふと、崩子の言葉が脳裏をよぎった。
崩子はもう帰ってしまっただろうか、初等部を覗いていこうか迷って、それからやめにした。崩子は人目が集まるのを嫌う、僕が行くとどうしてかざわつく教室内が、すごくいやそうだったのを思い出したので。
崩子、どうして僕が残酷なんだろう?
いつも吸うタバコをポケットにしまったまま、まっすぐ帰路につく僕が、優しくなりたいと思う僕が、どうしてなんだろうね。
「焼きもち…かな」
ふふ、仕方ない妹だなあと笑いながら見上げた空は、あの制服のような濃い青をしていた。
( 08.11.25 / 萌→姫 )




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「しっしょー、おっはようございますよー」
「おはよう、ひめちゃん」
「これからお出掛けですか?土偶ですね!ひめちゃんもなのですよー、途中までご一緒しましょー!」
「いいよ」
「土偶はスルーですか!」
「あからさまなのは許しません」
「うう」
「………ひめちゃんさ」
「はい?」
「最近、何だかすごく楽しそうだね」
「えへへへー、わかりますかー?」
「うん、何か…可愛くもなったかな、雰囲気、が」
「そ、そうですか!?ししょー、ひめちゃんのこと可愛いって思いますか!?」
「うん思う思う、姫ちゃんさ、誰か好きな人でもできた?」
「っ!」
「そっかそっか、冬なのに春なんだね…さみしいなあ」
「…っし…」
「うまくいくよう、応援してるからね、がんばれ」
「……は、はい」
「…ちなみに、誰かってのを…こっそり教える気は…」
「やだなあししょー、姫ちゃんとししょーの仲じゃないですかー」
「お、お?教えてくれるの?」

「一生、教えてあげません」



斎冬さんが、このネタから姫+崩を書いてくれました!ありがとうございます〜っv
( 08.11.07 / 僕←姫 )




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体が震えるような音を聞いたことがある。
彼の触れる楽器は命を吹き込まれるようにしてメロディを紡ぐ。
彼の奏でる音は変幻自在で、殺したいとも殺されたいとも思った。
彼に触れたいと思ったのはいつからだろうか。彼の手で変わる音、彼の声で変わる世界。
そんな彼を…君を、変えたいと思ったのは…
「初めまして、私は罪口というものです」
「…つみぐち」
「ええ、あなたに世界をお見せしたいと思った者です」
虚ろな瞳に映るのは、今後一切、私のみで構わない。
( 08.04.24 / 罪曲 )




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カンカンカンカン!
よもや、階段を駆け上がる音として、そんな響いた音を聞く日がくるとは夢にも思わなかった。
静かで、狭く高く続く螺旋状に伸びた階段を駆け上がる足は二つ、一つはカンカンカン!と相変わらず煩い音を立てて、もう一つは上履きらしいゴムと床が擦れる音が時折響いた。
ぜえぜえと、曲識は苦しげに喘ぐ。
自分の手をぐいぐいと、恐らく痣ができるだろう強さで握り締めて引っ張るものだから、自分のペースを遥かに越えてしまっている。元より運動はできた方ではない、得意な楽器に肺活量を鍛えられているとはいえ、それは座った状態での話だ。このように屋上へ繋がる階段を駆け上がる用に鍛えられてはいない。
いい加減足が限界を訴えていた、膝がもう殆ど笑い死にしそうにガクガクと震え、それでも何とかかんとか気力で段差を駆け上がっていた。二階から五階へ。物凄い速さで、駆け上ったことのないような速さで階段をのぼってゆく。
曲識は握られていない手で、ワイシャツの第一ボタンを何とか外す、力なく震えた手、常に動くその体に幾分苦労しながらも、ボタンを外し、ネクタイを緩めた。
少しだけ楽になった呼吸にホッとする間はない、もうすぐだ!と前から嬉しそうな叫び。と同時にぐんと更にスピードが上がる。
待ってという間もない、自分の手を握るその手が、手首から先を引き千切らんばかりに引っ張りあげるものだから、痛みに顔が歪んだ、慌てて一段抜かしに階段を飛び越えていく。
あははっもっと急ぐぞー!!と笑う声に息切れる様子は感じられない、むしろ生き生きとしている。滅多にかかない汗が目尻に触れてちりりと染みる、細めた瞳に見えたのは、真っ赤に塗られた爪だった。
カンカンカン!と真っ赤なハイヒールが叫ぶ、そんな踵の高い、見ればいつも通りの赤いスカートに赤いブレザー、ああ、そんな短いスカートで二段抜かしを…と恥じらいも何もないのだろうかと、見えてきた光に煌めく真っ赤な髪をぼんやりと見上げた。
ガシャアアーンッ!!
凄まじい音と共に向こう側へ吹っ飛んでいったドア、元、ドア。
そうだ確か屋上へ繋がるドアには鍵がされていたはずだ、柵も何もない屋上は危険なので立ち入り禁止、と。良いのか先生…そう言いかけて口を噤む、この人には常識だとか規則だとかは無意味に等しい、自分ルールで生きているような先生だ、どうして先生をしていられるのかが不思議なほどに。
ぜえぜえ、ひゅう、ひゅう、ぜえ、はあ
喉から血が出そうだった、楽器の練習にここまで費やしたことだってないのに。壊れてしまっては元も子もない、だから僕は。
「なあ少年よー」
「……」
「なあ、聞けよ」
「…聞いて、ます」
「口を挟むんじゃねえよばーかっ!」
「……」
あはははっと赤い色をした口紅が動く、楽しそうだった。空はこんなにもどんよりと重いのに。
泣き腫らした空は重い灰色、びしゃりと足元で水が跳ねる。屋上に来たのは初めてだった、何せ立ち入り禁止区域なので。
細い両腕がばっと広げられた、背中はあんなにも細く小さいのに、あんなにも堂々としている。
「ほら、見ろよ」
「……」
「見ろ!」
「見てます」
「虹だぜ」
「…!」
赤色越しに見やった灰色の空、まるで何かが降りてくるような光が雲の隙間から漏れていた。じとじとと雨のにおいがする空に、ぼんやりと霧のように七色の虹がかかる。
「そんな暗い顔してんなよ」
「…」
「虹のように泣いて笑って怒って寝てしまえ!」
「先生のように?」
「え?私かあ?私は…笑って死にたいなあ」
「……僕は」
「満足して死ぬなよ」
「悔いて悔いて死ぬほど悔いてあれもしたかったこれもしたかったって悔いてそれでもダメなら死ねよ、それまで死ぬなよ」
「…あの」
「だからさ、自殺なんてやめろよ」
自殺、…自らを殺す。……自殺…?
「あの、先生、僕は別に自殺なんて…」
「んん?いーんだいーんだ!隠さなくったって。死にたいって、顔に書いてあった。そーいうの迷惑だからさ、虹を見て己の小ささを悔いてもらおうと思って」
「だから僕は別に」
「あと私、一回で良いからこういう臭いのやってみたかったんだよねー!!」
「……」
あはははっと笑う、赤い色をした、先生。
「先生」
「…」
「せんせ」
「潤だ!入学式で言っただろ、名前で呼ばねえやつは生徒じゃねえって」
「…じゅ、ん先生…」
「何だ生徒!」
「僕は、曲識、です……」
「ん?んん、ああ、そっかそっか、そんな名前なのかあんた!」
赤い口紅が弧を描く、今になって掴まれた腕がちりりと痛んだ。五か所痛い場所がある、ということは恐らく爪でも食いこんでいたのだろう、あの赤い爪が。僕の、腕に。
「曲識な、ちゃあんと覚えた!覚えたからさ…この狭い世界に一人だなんてクソみてえなこと思ってんじゃねえよ」
「……思ってません」
またまたあ!と笑う赤色は、先生には思えなかった。恐らく虹のように前触れあって現れて、虹のように気付いたらいないのだろう。

赤はこんなにも、鮮明なのに。
( 08.03.23 / 曲潤 )




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ざわざわと絶える事のない雑音の中、人ごみに押されぶつかれ、足元がふらついた。
息が苦しいのは、きつく縛られた帯のせいなんかじゃなくて、単純に、息が詰まるような、思いだった。
ピンクを基調に、可愛らしく仕上げますねと言われてされた化粧は、あの時はあんなに嬉しかったのに…今は、…今すぐ落としてしまいたいほどに、怖い。
マスカラってこんなに視覚の邪魔をするんでしたっけ…
ガチガチに緊張したみたいに何度も瞬きをする、まるでその存在を確かめるように。
けれど、どんな人ごみの中でも見つけてしまった、絶えない騒音の中でも聞こえてしまった。
あなたの存在は、まだ、わたしの中で、こんなにも大きく、割合を占めている。少なくとも、息が詰まるほどには…
不意に目頭が熱くなったのは、十年前と変わらない笑顔を見たからだろうか、屈託ないその笑みに、大人っぽさが加わって、忘れたはずなのに、諦めたはずなのに、胸の奥がきゅんと締め付けられた。
零れ落ちそうになる涙をぐっと堪える。吐く吐息が寒さを物語って、思い出したかのように耳が痛くなった。
声は、…掛けられるはずもない。だって会うのは十年ぶり、いやそうじゃない、そうじゃなくて、声を掛けられるほど、わたしとあなたの距離は近いものではなくて、むしろ遠く遠く、今考えると、同じ教室内にいたというのが嘘のような、夢の距離。
あの時の机の配置よりもよっぽど今は近いのに、今の方がよっぽど遠く見えるのは、ぽっかりと空いた空白の時間のせいだろうか、知らないあなた、知らないわたし。知ることさえも、緊張が憚って、あの頃は目さえロクに合わせる事ができなくて。
ふと、今まで談笑していた顔が、こちらを向いた。こちら、じゃないかもしれない。わたしの後ろかもしれない、その近く、とにかくわたしじゃないと、そう思いながらも、現金な心臓は、合っているはずもない焦点に跳ね上がった。
手が、上がる。振るように伸ばされた細い腕、女のわたしなんかよりよっぽど白くて細くて、でも骨ばってそれは男の人のもの。それを振られる人が羨ましいなんて心臓がじくじく恨み言を呟いた。
ブンブンと変わらず振られる手、誰だろう、気づいていないのだろうか。わたしは、…わたしはこの人ごみの中で、誰よりも早く、一人、腕時計を眺めるあの人に気付いたというのに。
気づいたわたしと、気づいてもらえないわたしと、気づいてもらった誰か。一生懸命振っていて、何か声を発しているようだった。今の今まで聞こえていた声が急に聞こえなくなった。
ザワザワザワという音が妙に辛くて辛くて、逃げ出したいと足が動くのに、震えてしまって動けずに、ただぼんやりと、手を振り叫び続ける彼を眺めてしまう。
泣きそう…
そう思った時、遠くで、これから式典が始まりますというスピーカの音割れた声が聞こえてきた。その声にみんな吸い寄せられるように、そちらへ向かう。
わたしの足は、動かない。瞳がそちらを向いて動けないように、足も根付いたかのように、動かない。
ともなれば、みんな邪魔そうに避けて、いないかのようにぶつかって、ふらついた拍子に長い袖が地に着いた。
体勢を立て直す間もなく続けざまにぶつかってしまえば、もう耐える足もなくて、押されるままに地面へと傾いてしまう。
ぶつかると目を閉じる。
訪れたのは、決して痛みなんかじゃあなくて
「…大丈夫か?」
肩に触れた手のひらは、あの日振り払った熱によく似ていた。
( 08.01.15 / 人→←舞 )




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肺を圧迫されているような、そんな苦しさが少しだけ呼吸を狂わせる。ただでさえ早鐘を打つ心臓を押さえれば、いつもと違った生地の感触。丁寧に縫われた質の良い帯は、自分とは無縁の赤色、剣玉のような、赤。
その赤に手を添えて、あちこちが痛んだドアに拳を作った手を近付けた。
「…、っふぶうっ!」
「え?」
開かれるのを期待と不安で待つはずだったのに、催促もしていないうちから開かれたドアに顔面直撃、一姫は痛みに耐え兼ねて呻き声をあげた。ドアを開けた張本人は、きょとんとしていた。
「姫ちゃん、いつからそこに」
「いちまんえんとにせんえんまえから」
「いつだよ」
「うう、鼻がよからぬほうこうへええ!」
「大丈夫、元からよからぬ方向だったよ!」
「なんと!姫ちゃんを愚弄するですか!」
「フォローするですよ」
いつもの小さな戯れ、鼻の痛みなんて忘れてしまいそうな幸せに、一姫は鼻頭を押さえながら、口元を緩めた。虚ろな青年は、ん、と不意に声をあげた、どうやら気付いたようだ、一姫の異変に。…それは決して鼻の方向ではなく。
「…姫ちゃんってさ、今年だったっけ…?」
「はっ、はい、な何が、でしょうか!?」
「七五三」
「!!!!!!」
黄色の着物は自分の信号、それを制止させる赤の帯と色とりどりの紐をぐるぐると巻いて、髪はいつものリボンとは違う、結われた紐をくるりと巻いてリボンを作って。
精一杯の背伸びは、七五三程度にしか伸びなかったようだ。
急に、目頭が熱くなってきた。心臓が、痛い。
「ひめちゃ」
「ししょうは、でりけーとですね、ほんとうに」
「いや、まあうん、デリケートだけども」
「…ししょうなんか、好きじゃない、です」
震える声、握り締めた拳の先端はきらきらと場違いに光り輝いて。噛み締めた唇は、艶々と濡れていた。瞳も今にも濡れ出しそうで…それだけは避けたかった。
「しつれいします」
「ッ姫ちゃん」
「っは、離して下さい!ハラスメントー!」
「…苦しいの?」
「え」
翻した後ろのリボンは少しだけ工夫した縛り方、ひらりと蝶のように逃げ出せずに、手を掴まれた。
後ろで、小さな笑い声。
「嘘だよ、からかっちゃってごめんね」
「どうせうまのこにもいしょうです」
「馬…?ああ、馬子ね」
力ない笑みはしょうがないなと甘やかしのサイン、今だけは、勘弁してほしい。
「そんなことないよ」
「おせじもおさじもいらないです!」
「そんなもの、あげないよ」
「ーーっ言葉遊びだって姫ちゃんは…!」
「かわいいよ」
「〜〜〜〜〜っ!!」
姫ちゃんは、どうして息が詰まるんでしょうか。
( 07.12.27 / 僕姫 )




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ふわふわくしゅくしゅの柔らかな生地で作られたスカートは、中に見えないものが詰め込まれているかのようにふわふわひらひらと頼りなくて、動く度に肌を掠めて少しくすぐったい。
自分らしからぬ女の子全開の服装に戸惑いながらも、これが脱げずに中々どうしたものかと舞織は苦笑いを零した。向かいでスカート、もといスカートを履いた舞織を絶賛する双識がいるからに他ならない。
「うん!妖精っていうのはこういう子のことを言うんだろうね!」
「…はあ」
「ほら、ひらりともう一度回って見せて!そう、凄く綺麗だ…幻想的な…湖の畔に住む妖精のようだよ伊織ちゃん!」
「…どうも」
ハート乱舞、辺り一面にばら撒いて、双識は喜色満面、舞織を褒め殺す。自分ではないと錯覚してしまいそうな服を褒められたところで、素直にありがとうございます、うふと喜べるほど自分は大人でなければ可愛くもない。
そう、可愛くないのだ。妖精なんかじゃない。わたしは、お兄ちゃんに褒められても素直に喜べない可愛くない妹なのだ、そう改めて頭の中で字列にすると気が滅入る。
ああ、やっぱりこれは私なんかが履いてちゃダメだ。きっと人識君の方が似合う、うまくお兄ちゃんを煽って人識君に着せて有耶無耶にしてしまおう。わたしが妖精だなんて勘違い、忘れてほしい。
「おにい」
「どうしたの、そんな顔して」
「…あの、わたしやっぱり」
「伊織ちゃん」
「っ」
きゅと、冷たい手に包まれて、背筋がふるりと粟立つ。冷たい優しさに目が冴えていくようだった。
「かわいいよ、すごく。だから…ね?笑ってよ」
「……はい、ごめん…ごめんなさい、お兄ちゃん」
あなたがそう言うから、わたしは泣きたくなるような苦しみを、胸に。
( 07.12.27 / 双舞 )




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酷く冷たい壁に背中を預けて、ゆるりと煙草をくゆらせる。
煙いですよ、萌太と咎められてもごめんねと詫びることしかできないのは、今考えている事のせいだ。
崩子はふぅと肩を竦めて台所へと姿を消した。少しして、しゃりしゃりと音が聞こえ出す。
林檎を…剥いているのかも知れない。
「りんご…いいですね…姫姉、喜んでくれるかも」
肺いっぱいまで吸い込んだ煙を、吐けるだけ吐き捨てて、萌太は静かに笑う。
あの人は、よく笑う。僕や崩子のように静かに笑うでもない、潤さんのように豪快でも、みい姉のように見守るような笑みでもない。年相応、少し幼い、柔らかで温かで、鈴のようなソプラノ。
かわいいなあと、純粋に思った。
「ゆかりきさん」
ぽつりと、苗字を読んでみる。どうも、しっくりこない。
「いちひめさん」
…さん付けがまずいんだろうか、さも年下であることを思い知らされるような雰囲気だ。
「いちひめちゃん」
これは…違う。何て言うか…いやらしさ全開な気がする。
「……いちひめ…」
呼んだ時の顔が浮かばないなと萌太は、あっという間に短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
雲に隠れていた夕日がテーブルの角をオレンジ色に照らし出した。
と、遠くで声がした。楽しそうな、声。
「…姫姉さまたち、ですね」
崩子が、消え入りそうな声で呟いた。手にはウサギの耳の形の皮を残した林檎。しゃりと噛めば甘ったるいにおいが部屋に充満して、煙草のにおいを消していった。
たまらず窓を開ける。
いっそう、響く声。
「しーしょー!」
ああ…本当だ、姫姉だと。緩む口元に煙草をくわえて、窓の手摺に腕を乗せる。
「姫ちゃん」
「うひゃはははー!」
楽しそうな、しぬほど楽しそうなその笑顔。僕にはしんでもできない。羨ましくて眩しくて、愛しいと思う。
今は、どうしてか、ぐらぐらと目眩がするのだけれど。
「萌太は、どうしてそんな陰鬱な顔をしているの」
「しているかな」
「ええ、まるで生を嫌う死神のようよ」
「それは参ったね」
「わたしは、いー兄さまのところへ行ってきます」
「行っておいで」
崩子は、最後のひとかけを口に含んで、咀嚼して、飲み込んだ。
伏し目がちの瞳が、ドアを出る前に、こちらを向いた。
「萌太」
「うん?」
「姫ねえさまを、悲しませないで」
「…ぼくが、悲しませるの?」
「行ってきます」
悲しませる、だって…誰が…僕が………どうして…
「崩子はおかしなことを、いうなあ」
ふうう、と煙草を夕空に向かって吐き出す。
下から、あっと声がした。
「萌太くーん!」
「こんにちは、ひめ、ねえ。それからいー兄、みー姉も」
「ああ」
「こんにちは」
「崩子がじき、そちらに着きますので、よろしく」
「うん、崩子ちゃんは一生大切に」
「みー姉、よろしく」
「任せろ」
いー兄は虚ろな瞳で薄く笑った。
ぶんぶんと手を振る姫姉に手を小さく振り返して、フェンスに乗せた腕をどけ、窓を閉めた。
崩子ちゃん!と弾んだ声が響く。
そうか、そうだ、ったんだ。失念していた。
「ひめちゃん」
いー兄が呼ぶ時の、笑顔が、かわいかったんだ。
また、遠くで、ひめちゃん と声がした。
( 07.12.26 / 僕←姫←萌 )




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澄んだ青空に、はあと吐かれた白い吐息は、すぐに青い空に溶けて消えた。
乾いた空気、冷たい風、優しい色をした空、そして自分の左、少し下げた目線に飛び込むのは白い髪。
舞織は小さく笑みを零した。
その小さな声を拾ったのか、白い髪が揺れる。
「なんだよ」
「え?なにがですか?」
「今笑ったろ」
「笑ってませんよ」
振り返った三連ピアスにももう慣れた、少し幼いその顔を歪めて、人識はぜってー笑ったろと口を尖らせた。
舞織は今度は苦笑いを零す。
とその時、肌を突き刺すような冷たい風が一陣身を擦り抜けていく。出掛けに見つからなかったあのお気に入りのマフラーはやはり遅くなってでも探すべきだったと舞織は寒さに身を縮込めた。
舞織は背を丸めながら、半歩前を歩くその姿にそっと目を移す。
どうやら小さな苦笑は風に紛れて前を歩く人識には聞こえなかったようである。
ほっとしたようながっかりしたような、複雑な心持にぼんやりとしながら街を歩く。
半歩先を行く人識の首には、寒さをがっちりガードする暖かそうなマフラーが巻かれていた。まるでわたしへの厭味のようにぬくぬくと、そのマフラーで三連ピアスはおろか、鼻より上まで隠してあるようだった。
どおりで。
舞織は合点がいった風に頷く。
通りで、さっきから周りの目が熱いわけだ。普段なら頬の刺青や三連ピアスに、可愛い男の子熱視線がささっと逸らされるわけだが、今日は熱い。すれ違う女の人女の人、男の人までもが人識を見やり微笑ましそうに笑んだり可愛いなどと褒め殺しされそうな言葉が聞こえたりしたのか。
そしてどおりで、機嫌が悪い、と。
「っくしゅん!」
耳がチリリと寒さで悴んで、手も鼻も赤くて痛い。寒さのせいで腹に入った力が、くしゃみで更に入ってしまい、お腹がずきりと痛んだ。
前をすたすた歩いていた人識が止まる。
「……ほら」
「………いや、これはど」
「ほら」
「いやでも、あう!」
ほらとしか言わない人識。手には右手片方の手袋、わたしにはちょっと小さいソレは見た時から人識君の趣味じゃないよなあと思っていたのだけれど。
ははあなるほど、お兄ちゃんの手編みですねと舞織は無理矢理渡された片方の手袋をしげしげと眺めた。
まあ折角だしと思い、いそいそと右手にはめる。
じわりと温まっていく片手に綻ぶ顔も、なぜ片方だけなのかと片眉が上がる。
と。
「……いや、これは」
「黙れ」
「いやいやいや、でも人識君これはちょ、ひゃう!すいません!」
冷え切った左手をじわりとさせたのは、自分と同じぐらい白い、そして小さな右手だった。
今の今までされていた手袋の名残か、じわりと温い人識の右手に包まれた自分の左手は、何だか自分のものではないようで。
それでも込み上げる何かがあるのは、僅かに見え隠れするその耳が赤かったからだろうか。
寒さのせいかもしれない、蚊に食われたのかもしれない ―あんなところ食われたら絶望的ですけど― でもそれでも、人識の耳が赤いというのは紛れもない事実であるわけで。
つまりそれは、それを知った私はつまり………
と思考を中断せざるを得なくなるような熱視線を感じ、舞織は隣を見やる。人識と目が合った。
「……変な顔」
「お互い様です」
むず痒い思いはきっと、体が温まってきた証拠なのだろう。
家はもう、間近。
( 07.12.13 / 人舞 )