暗い、寒い、怖い、鳥肌が立つ、何も見えない、埃っぽいにおい、不安定な足場。


あそこはそんなイメージが付き纏っている。

それは、通り掛かって見掛けていた頃と、出入りするようになってからとそう変わらない。

つまり見たままのところだったのである。

ただ、そうは思っても中に入らずにはいられない理由ができてしまった。


こうして足繁く通ってしまうほどの理由、それは……

愛を知らない恋物語 クリスマス編

ガサリ

手の内で音を立てた袋を見やり、暦は息を吐いた。


目の前に聳え立つ今、にも崩れ落ちそうな建物の前に立っていると、自分の中の全てのものが下がっていくような気がする。

決意してここまでやってきたはずの心も、やっぱりやめようかどうしようかと迷いだす始末。



「ああああ、何やってんだ、僕は…」



遂に抱えてしまった頭、冷えた指先でも冷たく感じる毛先が、長くここに立っていることを教えてくれる。

腕時計の針は随分とまあ移動してしまっていた。


鼻の頭も耳も、痛くて痛くてしょうがない。



「………渡すだけ…特に意味はない…そうだ、渡してさっさと帰ってくればいいんだ」



こうやって悩むから意味深な気がするんだと言い聞かせ、僕は手の内の袋をぎゅうと抱え込んで、中へと足を踏み入れる。


相変わらず不気味なところだな…


折り重なるようにして支え合っている材木や棚を掻い潜り、穴を跨いで階段を上っていく。


トントン、パキ、トン、ギシッ


そっと置いてくる、という選択肢が選べないのはこれが理由である。

足が勝手に音を響かせてしまう、こんな静かなところには誰も来ないため余計響くような気がする。



僕は、あいつがあの部屋にいるかも分からないというのに、向こうは来たことを察知できるのはずるいと思う。



「………」



ドアの前に立つ。

なぜかいつもより息切れてしまっているため、深呼吸。


大丈夫、大丈夫だ。

何が大丈夫なのかよく分からないが、とにかく大丈夫だ、万事うまくいく、渡してすぐ帰ろう。



「お、忍野、いるかー?」



ガラリと動きの重たいドアを開け、中を覗き見る。

窓の外から漏れる月明かりを頼りに、恐る恐る足を踏み入れると、埃っぽいのかかび臭いのか、はたまたどちらともなのか、鼻に刺激を与えてくる。

大分慣れたとはいえ、やはりまだ顔を顰めずにはいられない。



「忍野ー?…あれ…あいつもいないのか?」



暗闇によく映える色素の薄い髪をした二人の姿は、見渡した限りには目に止まらず。

外出中だったかと、頭が認識し、ひどく心が落胆した。



「…いやいやいや!別に僕は落胆なんてしてないぞ!むしろ好都合だ!今のうちにそこらに置いて…」

「あーららーぎくんっ」

「あ…っ!」



ほら、よくあるじゃないか。

自分のものとは思えない声が漏れてしまって…なんて表現が、官能小説とかに。

けれど実際はそんな甘いものでも艶めいたものでもなく、ただただその場の空気が凍りつき、そして居心地の悪いものになるだけだった。


突如首筋に感じた冷たいものに身を竦めること二十秒ほど、その間、後ろにいたヤツも同様に固まっていた。



「えーと……元気だね阿良々木くん、何か良いことでも…」

「目線を下ろすんじゃない!」

「いやあ…はっはっはー」

「笑ってごまかすのも禁止だ!」

「……じゃあ、ベッドへ行こうか…」

「今こそ阿良々木スペシャルを見せる時のようだな」

「え、なにそれ」

「だから下を見るなあああ!!」



そんなやり取りを二度三度繰り返し、寒さが内部にまで到達したところでそれは終了した。

ちなみに首筋に当てられた冷たさの正体は、忍野の掌だった。

忍野いわく、無防備に曝け出された首筋に手を這わせないのは失礼だとか。んなわけあるか!



「で?」

「でって何だよ、露骨に嫌そうな顔しやがって…」

「いや…阿良々木くんがここにやってくる時は大抵怪異絡みだからね」

「…そんなこと」

「ま、良いさ。なんてたって今日はクリスマスだからね、出血大サービスしてあげるよ」



忍野ってキリスト教なのか?いんや〜なんて雑談を交えながら、また会話はあらぬ方へと進んでいく。

と思ったら――



「阿良々木くん、今日は何用なのかな」

「…何だよ、今日はやけに急かすな。いつもは回りくどいことばっか言ってるくせに」

「実を言うとね、いやあ…恥ずかしいんだけどちょーっとばかし体調が思わしくなくてねえ。事件なら早く解決したいって言うのが本音かな」

「……お前でも具合が悪くなることがあるんだな」

「阿良々木くん…君ね、僕を何だと思ってるんだい?」

「いや、悪い…つい。大丈夫なのか?」



いつものように机に座る忍野は、そう言われればどこか気だるげだった。

ならば、これは調度良いのかも知れない。



「うん、薬買ってきたし」

「それでいなかったのか」

「そう、薬を調達しにふらっとね」

「へえ、ほんとに具合悪いんだな。じゃあ、これは僕からのお見舞いだ」

「え?」

「残念だけど今日は怪異絡みじゃあない」



あの忍野が薬局かどこかで風邪薬を購入する姿は見てみたいものだ。

失礼なことを考えながら、僕は袋を忍野へ向け放り投げた。



「なんだい?これは」

「見舞いだよ見舞い、見てるこっちが寒いから…」

「開けても良いかな?」

「待て!僕がいなくなってからにしろ!」

「えー…何だい、アブナイものだったりしないだろうねえ」

「僕は善良な一般市民だよ!」



まるで僕が善良じゃないみたいじゃないか、と不貞腐れる忍野に、そうだろ!と突っ込みを返す。

忍野は受け取った袋と僕とを交互に見やりながら、渋々分かったと頷いた。



「よく分からないけれど有難く頂戴するよ、この礼は体調が元通りになってから働かせてもらうよ」

「別に…見返りを求めてたわけじゃない」

「まあまあ、そう言わないで。僕がそうしたいだけなんだから」

「……あっそ、じゃ…僕は帰る」

「え?もうちょっとしたら忍ちゃんも帰ってくるよー?のんびりしてけば良いのに」

「いやいい、早く帰って来いって言われてるんだ」

「ふうん、じゃ、またね、阿良々木くん」

「ん」



バイバイと手を振るのに頷きで返し、ドアを閉める。

そしてあちらこちらの傷みや古さを無視し、全力で廃墟を後にする。



「……は、はあ…はあ」



こういう時、この力って便利かも…

そんなことを考えながら、僕は脇に止めていた自転車に跨った。


うーん、冬でよかったなあ。

この頬の赤みは、どうしたっても説明がつかない。


僕はこの先待ち受けている恐怖を知る由もなく、鼻歌交じりに帰路に着いた。