「姫ちゃんは、ぼくにキスしてくれたよ」



突然、呟くように囁かれた言葉は、まるで他国の言語のように聞こえた。

いー兄は人当たりの良さそうな笑みを浮かべている、いや、意地の悪そうな笑みなのかもしれない。はたまた、どちらでもない、笑ってもいないのかもしれない。



「姫ちゃんは」

「そうですか」



もう一度、繰り返されると思った瞬間には喉が震えて声が出ていて。

しまったと思っても後の祭り、いー兄はやはり楽しそうに笑った。

君の思い、僕の想い、あなたの重い

泣きたいと思ったことは、ない。

あったのかも知れないけれど、忘れてしまった。

辛さに慣れたのかも知れないし、元々そういう感情が欠落しているのかも知れない。



姫ちゃんは、



動く口元、その唇が触れたのだろうかと思ったら、言葉にできない震えが体を流れていった。

何かは分からない、憤りなのか恐怖なのか悲しみなのか絶望なのか。



あの日から、姫姉には会っていない。

一度だけ、曲がり角で会ったけれど、目が合った瞬間に凄まじい勢いで逃げられてしまった。

それ以来、会っていない。


会おうと思えば会えたかも知れない、会おうと思って探しても会えなかったかも知れない。

ともかく。バイト三昧の日々、今まであんな風に会えていたのが奇跡だったんじゃないか、夢だったんじゃないかと思えるほどに会えていない。

あれが奇跡なら、今は意図的に会えないような、気もするけれど…



あの時の逃げっぷりを思い出して、知らず知らずに、口元が緩んだ。


痛む心臓に目を閉じて、煙草の煙を紫がかった空へと吐き出した。



ねえ姫姉、どんな思いで、いー兄にキスしたんですか…?



言ったら僕にもキスしてくれるだろうか

そう考えて、僕は声も出さずに笑いを零した。