カンカンカンカン

そんな鉄金属の音が上から響いてくる。

時計を見遣れば、ああもうこんな時間になってると口元に笑みが浮かぶ。


勘の鋭い妹に、その笑みの真意を問われる前にと、玄関を塞ぐゴミ袋片手に、外へ出た。

にかいのおひめさま

タタタッタタッ トントン、トン

不規則な足音が、階段の下で鳴る。

いつもここで踏み潰してしまった靴を履き直すのが彼女の癖だった。


手のうちには、前が見えなくなるようにしてもったゴミ袋。

それを持って、いち、に、さん、し、…心の中で五カウント。ソレと一緒に足も五歩、前へ進める。



「うぐふぁっ」



すぐさま衝撃、ゴミ袋の向こうから不可思議な悲鳴。

大した重みもないゴミ袋を投げやって、反動で倒れていくその小さな体の手を引いた。



「…大丈夫ですか?」

「も、もえたくん!?」



手の内に、無事、おさめることができたのは、小さな小さな女の子。

名前を紫木一姫、このアパート二階に住む高校生、らしい。

高校生とは名ばかりの、小学生ではないかと見紛う幼い容姿とそれを裏付けるような大きなリボン。

幼さの残る笑みは、太陽よりも眩しくて、暖かい。


衣服を通して伝わってくる温かさに、心拍数が上がるのを感じ、さっと立ち上がる。

まだ冷たいコンクリートに座りっぱなしの一姫に手を伸ばし、その細い手首をつかんで引き上げた。



「いつもすみません、前が見えなくて」

「あはは、へいきですよ、姫ちゃんは丈夫です!萌太君こそ、あんな大きなゴミ出し、いつも御苦労さまですっ」

「ありがとうございます」



ひまわりみたいに大きな笑みを浮かべ、一姫は脇へ飛んだ鞄を拾いに向かう。

重くもないゴミを、さも重そうにしながら拾い上げ、萌太はポケットから煙草を取り出した。



「萌太君、加害者の私が言うのもおかしいことですがタバコは体に毒ですよ?」

「…うーん、言い得て妙ですね、姫姉」



きっと部外者って言いたかったのだろう、懐っこい笑みを浮かべる割に人見知りをする一姫に小さく笑みを返す。


それでまた咲いた笑みに目を細め、そろそろだろうと腕時計に目をやった。



「それより姫姉、時間、大丈夫ですか?」

「?時間?」

「学校」

「あ!!!!」



目の前の腕時計に目を見張って、一姫は驚愕する。



「遅刻確定です!マズイですよマズイですよ、通算五十回目の遅刻、ハッ!五十…ってことは…」

「?ことは?」



さあああ、と顔面蒼白していく一姫を覗き込む。

その目にはうっすらと涙。



「遅刻指導が入っちゃいますー!ぎゃー!行ってきますー!!!」

「行ってらっしゃい」



砂煙を巻くように、一姫は目にもとまらぬ速さ、とまではいかないが、彼女自身の全速力をもって駈けていってしまう。

萌太はその後ろ姿を見遣って、小さな笑みを浮かべた。



「さよなら、姫姉」










ざわざわとどこへ行っても騒がしい校内、一姫はげんなりとした表情で廊下を歩く。

擦れ違う男子に数度ぶつかりながら、一姫は何とかかんとか自分の教室へと辿り着く。


鬼教師の体罰宜しく反省文二十枚を、涙で濡らしながら書き上げた一時間目と二時間目。


腫れぼったい目を擦りながら、教室のドアを開けた。

と、廊下とは比べ物にならないほどの大声量、女子の黄色い悲鳴が上がっていた。

一姫は首を傾げ、ドアから近い自分の席へと鞄を置いて、その悲鳴の上がる方を見遣った。


凄まじい人だかりができていた。しかも女の子ばっかり。



「……モデルでも転校してきたですか」

「当たらずとも遠からずだなあ」



一人呟いたその言葉に、くぐもった返答が返ってくる。

後ろを見遣ると、綺麗に色抜きされた髪が目に飛び込んできた。

同じ班の零崎くん。このクラスになって半年が経つが、どうしても刺青が気になって、目がそちらに行ってしまう少年だった。


その零崎君は眠たいのか煩いのにうんざりしているのか、体を机に突っ伏していた。


一姫は席に座り、女子が囲むそちらを見つめた。



「へえ」

「俺の人気ガタ落ちじゃねえか、なんつって、かはっ」

「名前はなんてーですか?」

「…あー、何つったかな」

「萌太君ですよう」

「え?」


横からひょいと顔を出したのは、これまた同じ班の無桐さんだ。

先生から幾度注意されてもニット帽を脱がない意志の強い彼女、帽子の中ははたしてどうなっているのかが一姫はここ半年、ずっと気になっていた。


ふふ、とふんわり微笑んで、零崎君の隣の席へと腰を下ろした。



「……てめえ、「萌えた」で発音すんな、意味が違ってくる」

「でもホントに萌えキャラでしたよー、美人克明タイプでした」

「非の打ちどころがないってことか?」



ソレを言うなら薄命だろと、小さな漫才を見ているかのような二人の掛け合いに、一姫は笑みを零し…かけてハッとする。



「伊織ちゃん!いま何と!?」

「?美人克明?」

「薄命だっつってんだろ、つーかあんた、もしかしなくても見てきやがったな!」

「ドМ奴隷と呼んで下さい伊織様という彼氏がありながら?」

「どんな関係だ!」

「痛い関係です」

「あ、あの!」



いつもは心行くまで眺めているところだが、気になる単語がどうも突っ掛かって気持ちが悪い。

あの中に入っていくことは、小さな自分では到底不可能、せめてこの気持ちの悪さを解消したいと、一姫は言葉を発した。


と、そこに授業開始のチャイムが鳴る。

と同時に先生が教室も中へと入ってきて、生徒たちを取りまとめ始めた。


席に着けと言われ、素直に着いてからハッとした。

くるりと後ろを振り返ると、伊織ちゃんがにっこりと笑った。



「大丈夫ですよう、ゆーかりちゃん、もえくんはゆーかりちゃんのお隣さんですから」

「……もえくんて何だもえくんて」

「愛称」

「合性!!?」

「仲が良いんですね、本当に」



隣の席は、半年間ずっとずっとずーっと空っぽだった。

誰が座る事も許さないように、誰かを待つように、ずっとずっと空っぽの席は、いつしか汚れていった。

最早三人の荷物置き場と化していた、その机が…椅子が…綺麗になっている事に気付く。


穏やかな声、椅子を引く手のその指の細さ、ふわりと香る苦い匂い。


一姫はバッと顔をあげた。



「初めまして、えっと…」

「ゆーかりさんですよう、もえくん」

「ばかちげえって、紫木二姫だよなあ?」

「……」

「ああ、何でも屋の、紫木一姫さん、ですか?」

「も、え…たく…」



初めましてと二度目の挨拶は、儚く消え入るような言葉で。

零崎君の酷い言葉にも、どうして何でも屋を知ってるのかなんて突っ込みもできず、一姫はその顔を、穴が開くほどに見つめた。

だって今日、今朝がたに、会ったばかりじゃないか。

初めましても二度目ましてもない、どうしてその制服を着ているの、どうしてそんな顔をして、私の隣にいるの。



「も、え…」

「コラ!そこ、授業は始まってるんだぞ!零崎、前出てこの問やってみろ」

「…なあ伊織、こういうの差別っていうんだぜ」

「お腹減りましたねー」

「…ここにもいたか、俺の敵」



ガタガタと荒々しく席を立ち、私と彼との間をすり抜けて、零崎は前へと出る。

もうざわざわも耳に入らない、伊織ちゃんの言葉も先生の声も、チョークの音も。


少年はもう一度笑った。



「初めまして、これからよろしくね、紫木さん」



薄く笑う彼とは、本当に初めまして、だったのかもしれない。