「……あ、カップ麺が切れてる」



人一人がやっとな狭いキッチン、横に膝を寄せて体をしゃがめて、シンクの下の戸棚を開いた。

ついぞ数日前までは積みに積んであったカップ麺が一つもなくなっていた。


ぼくは数日前までの記憶を思い出そうとし…特に思い出すような出来事はなかったなと体を起こした。



「買いに行ってこよう」



独り言が多くなるのは一人暮らしの寂しさや静けさを紛らわすためだとか何だとか。

思ってるだけだと忘れちゃうかもしれないからねと誰に言い訳するでもなく、古く傷んだドアを開けた。



「うわ」



ドアを開けた先、裸電球の寂しく照らす暗い廊下に小さな塊。

ソレが何なのかなどと目を凝らすまでもなく


「何してんの、姫ちゃん」



涙に頬を濡らした紫木一姫だった。

絶えず止まらぬこの心情、術なく分からぬままなれど

いや、正確には鼻から頬から耳から目からを真っ赤にして、その赤く充血した眼から林檎のように赤く染まった頬を涙が伝っている紫木一姫だった。

つまりは大号泣。


見なかった事にして部屋に戻ろうとする足を何とか踏ん張らせて、小さな体を更に小さく丸めている姫ちゃんの隣にしゃがみ込んだ。



「姫ちゃん」

「!!し、ししょおー!」



ぶわ と滝のように涙を流す姫ちゃんは…なぜか正座をしていた。

ぶるぶると声が震えている姫ちゃんは、ぼくの姿を目に入れて、縋るように名を呼んだ。


あんまり大きな声出すと皆出てきちゃうよ、今出てこられたら…うわ、ぼくが泣かしたみたいに見えるんじゃない?

し と唇に人差し指を当てた。



「……何してんの」

「先に聞くべきは何で泣いているのですか一姫様ですですう」

「いや、それは違うだろ」

「ふえええん」

「何で泣いているのですか一姫様」

「デリケートなししょーには教えられませんっ」



こいつ…

ていうかデリケートって…そんなバイオレンスな理由なのか?


逆に気になってくる。



「実は萌太くんに好きと言われてしまいました」



聞く前にあっさり暴露しやがった。

って…今何て?


驚きに目でも丸くなっていたのか、姫ちゃんは言われてしまいましたともう一度繰り返した。



「……姫ちゃん、萌太くんに好きって言われたの?」

「ですよう」

「良かったじゃない、大嫌いって言われるよりは」

「やっぱりししょーはデリケート無しですううう」



…あ、デリカシーのこと、だな。

失礼な、デリカシーと言えばぼくが自然と筆頭に挙がるぐらい、ぼくは紳士なんだぞ。嘘だけど。


ともあれ、ぼろぼろと涙を零す姫ちゃんをここに放っておくわけにもいかない。

曲がりなりにも可愛い妹弟子で女の子だ。


とりあえず掴みやすそうな小さなその頭を引っ掴んで、がくがくと揺すってみる。



「しししししょおおお!?」

「こんなところで泣いてたって誰も助けてくれないよ、とりあえずぼくの部屋においでよ」

「…性的な関係で慰めようたって」

「じゃあぼくは買い物をしに」

「お部屋で待ってます」

「うん」



揺すられているせいで声の強弱が激しい。

笑いを堪えながら、頷くのがやっとなぼくは、満足してから手を離して曲げた膝を伸ばして立ち上がる。


姫ちゃんはきっと誰かを待っていたんだろうなと、横目で小さなその頭を見遣りながら思う。

こんな真昼間、ここのアパートの住人はインドアとアウトドアとで極端だから、下手をすれば誰とも会わないことだってある。

恐らく姫ちゃんはきっとここにいて、あんなどこもかしこも真っ赤になるまで、誰とも遭遇しなかったんだろうなあ、なんて。


目尻にまだ涙を溜めながら、けれどちゃっかりぼくの部屋のドアに手を掛けている姫ちゃんは、視線に気づいたのか手を上げた。



「ししょー、姫ちゃんにアイス!」

「……」



行ってらっしゃいかと思えばただの催促だった。

返事をせずに踵を返して、階段を降りる。


後ろからパタンと音がして、やれやれと肩を竦めたところで、ふわと漂ってきたのは白い煙。



「………萌太くん?」

「…こんにちは、いー兄」



口に銜えていた煙草を白く細い指の間に挟んで、萌太は静かに微笑んだ。


いつからいたのか、ずっといたのか、どうしているのか分からないが、萌太くんは階段を下りた一階の廊下に佇んでいた。

壁に凭れ掛かって煙草を吸う様がなんとも様になっていて、年上のぼくとしては立場がない。負けた気分だ。



「お買い物ですか?」

「うん、萌太くんは……泣かした姫ちゃんとどうやって仲直りするか考えてたの?」



ああ、意地が悪い。

というよりも、野次馬根性丸出し、ていうか嫌なヤツだな、ぼくは。


姫ちゃんが泣いていた事、萌太くんが泣かせた事を知っていながら、そんな事を敢えて言うぼくは、本当に嫌なヤツ。

萌太くんと違って格好悪い。


そんなぼくの心情など知る由もなく、萌太くんは細めていた瞳を少しだけ丸くして、泣いてましたか…とまた小さく微笑んだ。

…知らなかったのか……余計、嫌なヤツだな、ぼくは。



「泣かせるつもりも困らせるつもりもなかったんですよ。まあ…姫姉にしてみれば意識してもいなかった男からの突然の申し出だったわけですから結果的には困らせて泣かせるつもりになってしまったのかもしれません。……僕って…嫌なヤツですよね」



ふふ と煙草の有害な煙を肺に吸い込んで、静かにふと吐き出した。

儚げに笑う美少年は、どうして薄命なのか……喫煙者だからか?



「嫌なヤツはぼくの方だよ、ごめんね意地悪言って。二人の問題に部外者が首を突っ込むべきじゃあなかった」

「違いますよ、いー兄。嫌なヤツは僕で、いー兄は部外者じゃあないんです」

「え…?」



霧のように容量を得ない言葉に、ぼくは首を傾げざるを得ない。

萌太くんは、煙草を唇から離した。



「僕は、姫姉が泣いてると聞いて喜んでしまいました。だってそれは僕の事を考えて僕のために零れた涙なんですから。
ずっと僕の事を考えていてくれたら良いです。……ねえ、いー兄。どうして姫姉が泣いていたか分かりますか?」

「…さあ、弟だと思ってた萌太くんからの思いもよらぬ告白だったからじゃないかな」



それは本心だった。

まあ当然の…誰もが行き着く考えだろう。


だが、萌太くんは首を振る。

ポケットから携帯用の灰皿を取り出し、赤くチリつく火を消した。


煙が揺らめいて、空へと舞い上がっていく。



「姫姉は、いー兄、あなたがいるから泣いているんですよ」

「?どういうこと?」

「姫姉はいー兄に寄って寄って寄り掛かるあまり、いー兄以外は無頓着なんでんですよ。僕なんてその辺りの石ころ同然です」

「それは言い過ぎじゃ」

「優しいですねいー兄。本当に優しい。僕はそんないー兄が大好きですよ。姫姉が全てを預けるのも無理はないし納得もできる。でもだからこそいー兄はずるい。その気も無いくせに女の子いっぱい侍らせて」

「とんでもない曲解を始めたね萌太くん」



すみません と心のない詫びが一つ零れた。


…あれ、萌太くん、怒ってる?



萌太くんが纏う空気が氷のように冷たくなっているようで、ぼくの肌はぞくぞくと鳥肌を立てた。



「でも姫姉は泣いてくれた。いー兄に相談したけれど、いー兄に助けを求めたけれど、 それでも何でもなかった事にされるより忘れてしまうより嫌われてしまうより余程良い」

「も、萌太く…」



ふふ と萌太くんが笑う、もうあの穏やかな笑みは、ない。

あるのは、ただ一人の女に執着する、みっともない男。



「いー兄、には、負ける気はしません」

「……」

「ああ、それじゃ。僕はバイトに行ってきます。いー兄も早く買い物を済ませてきたらどうです?姫姉があなたの帰りを待っていますよ」

「そ、そう、だね」



では と萌太くんは消えるような声を残し、去っていった。

新しい煙草に火をつけたのか、風に乗って煙草の煙が鼻を突いた。



そして、身に覚えのない恨み妬みの散弾銃を受けた当のぼくはと言えば



「…ああ、あの奥にカップ麺、まだあったな」



煙草の匂いをさせて部屋に戻ったら、姫ちゃんはどんな顔をするだろうかなんて。

小さく浮かべた笑みは、負ける気のしない余裕のソレか果たして…