「ふあ、あ」



街は急にやってきた寒さに追いやられたかのように静まり返っている。

八月の終わり、蝉も鳴かない曇り空、泣き出しそうに重みを持った灰色を逆さまに眺め、舞織は欠伸を零した。



「お兄ちゃん、今日の晩ご飯はなんですかあ?」



舞織はむくりと体を起こした。フリーロングの床は寝るべきところではない、頭が痛い。


寒さに耐え兼ねて急遽登場したコタツに肩まで潜りつつ、向かいに座る軋識の向こうへと目をあげた。

視線の先は台所である、そこでは双識が夕飯の準備に追われていた。

そういえばもう六時も半を過ぎるしお腹も減っているような…曇っているせいで時間の感覚が狂ってしまったのかもしれない。



「今日はねえ、ロールキャベツとハンバーグだよ」

「卵スープも飲みたいなー」

「良いよー、もう少し待っててねー」

「わーい、お兄ちゃん大好きー」



ぐだりぐだりと、聞いていると眠くなるような、というよりも眠いのだろう棒読みの舞織に対し、双識は台所で嬉しそうに楽しそうに微笑んだようだった。


舞織はロールキャベツ美味しいですよねえと呟いて、テーブルの上へ顔を乗せた。

ひやりと冷たいテーブルの上には、蜜柑の入ったかごが置いてあって、何だかもうすっかり冬の態勢に入っていた。


左隣に座る曲識さんなんて、双識さんに言われるがままにチャンチャンコなぞを着こんでいて、なんともミスマッチ。



「なんだ」

「蜜柑食べますか?」

「悪くはない、が、もうすぐ夕飯だ」

「ですか」

「ああ」



会話終了。

苦手じゃないけど得意でもない、掴めないけど掴まなくても問題ないような。

曲識さんは不思議な人だった。



「ふああ」

「でかい欠伸っちゃね」

「あう、軋識さん、蹴らないでください」

「足を伸ばすお前が悪いっちゃ」

「だあってえ」



私の向かい、軋識さんが仕方ないなって笑いを零した。

先程、どこへ行ってきたのかスーツ姿で帰って来て、寒い寒いと言いながらまたいつもの寒々しい格好に着替えてコタツに潜り込んで数十分。


彼曰く、寒い恰好をして温まると贅沢な気がして、だとか、よく分からないけれど、寒いなら曲識さんみたいにチャンチャンコでも何でも着ればいいのにと私は思った。


まあ、何でも良いけれど。



「ああーっ、肩凝るな、くそ」

「黙って座ってるとあちこち痛くなりますね」



曲識さんの向かい、わたしの右隣に座って ―正確には寝転んで― いた人識くんが固まった体をほぐすようにあちこちを鳴らしている。



「んー…ちょっくら散歩してくる」



痛みが治まらないのか、人識は面倒そうに体を起こした。



「僕も行こう」

「はあ!?」

「兄弟の親睦を深めるのも悪くない」

「いやいやいやいや!俺は燕尾服の上にチャンチャンコ着た変な兄ちゃんと一緒に外を散歩できるほど勇者じゃねえよ!!」

「冒険にでも行くつもりか?」

「いや行かねえけど!そうじゃなくて」

「夕飯までには戻っておいでねー」

「分かっている、急ぐぞ人識」

「散歩を急ぐ意味が分かんねえよ!ああもう、ここら辺知らねえだろ曲識のにーちゃん!ちょ、待てって!」



ああもう面倒くさい!そう言って人識は立ち上がる。

コタツから出て分かる、肌を刺す寒さに肩を竦めながら、人識は早歩きで曲識の後を追う。


途中、上着を忘れたと玄関から戻ってくるとと、後ろの玄関でバタンと音がする。

ああもう行っちゃうし!と面倒見のいい人識は苛々しながらパーカーを着込んだ。



「迷子にならないでくださいね、お迎えになんて行きませんよ」

「冷たい妹だなおい」

「勇者への試練ですよ、うぐっ」

「殴るぞ」

「なぐったああ」

「こら人識!」

「いってきます」



ゴン、と痛そうな音がした。

舞織の小さな頭を鷲掴み、テーブルへと突っ込ませたのだった。


玄関でもう一度聞こえたバタンという音を恨みがましく睨んで、舞織は赤くなった額を擦っていた。



「うう」

「大丈夫っちゃか」

「もうだめですう」



ぐすんぐすんと舞織は目尻に浮かんだ涙を拭って、ごろりと寝転がった。

すぐさまゴツと聞こえた音、テーブルの下から、うええん、という小さな嗚咽が聞こえてきた。



「馬鹿っちゃなあ」



やれやれと軋識は立ち上がる。

肩まで突っ込んでいたコタツを抜け出ると、肌を冷気が刺すようで、軋識は腕を擦った。


横向きに寝転んでいる舞織を見下ろして、その小さな背中を蹴る。



「あう、何ですか軋識さんまでえ」

「ちょっとここスペース空けろっちゃ」

「ええ?なんですか、四面あるのにどうしてここなんですかあ、狭いですよう」

「いいから」

「ううう」



背中を痛そうに押さえながら、舞織は床に肘をついてずりずりとテーブルの脚へと身を寄せた。

少しできた隙間に、軋識が腰を下ろし、足を突っ込んだ。

じわりと温かさが肌の血行を良くしていくようで、少しだけ痒い。



「舞織」

「なんですかあ」

「その体勢は目の毒だっちゃ」

「つまり?」

「見える」

「おにいちゃああん」

「アス!セクハラはやめなさい」

「舞織がこんな恰好してるからいけないっちゃ!」

「そんな恰好してる軋識さんの方がよっぽどいけないですよう!」



何なんですかあもう!と、うつ伏せに顎の下に手を乗せて、頬を膨らます舞織。


違う違う、こんな喧嘩がしたかったんじゃないと軋識は首を振る。

舞織と同じように床に寝転んで、片腕を舞織の方へと伸ばした。



「…なんですか?」



意味を測りかねて、舞織が上半身を少しだけ起こした。

先程のように、胸元の空いた服だけが床へと取り残されて、白い肌がチラリと覗いた。

軋識は眉を顰めて天井を見上げる。



「…床が…」

「……へ?…あ、ああ、わたしが…痛いって言ったから?」

「べ、別にあんまり変わりはないっちゃろうけど…」

「うふふ、ツーンデレさんめえ」



少しだけ重いような、くすぐったいような、そんな感覚が置いた腕に伝わってきた。

ちらりと横目で見遣れば、ちょうど肘の辺りに舞織が遠慮がちに頭を乗せていた。



「痺れたら言ってくださいね」

「こんなことで痺れるほどヤワじゃないっちゃ」



ぶっきら棒にそれだけ返して、軋識はまた天井へと視線を戻す。

人の頭の重みが、動いた。



「きーししーきさーん」

「なん…うおっ!」



ガッ とテーブルの脚に反対側の腕をぶつけた。

痛みに顔を顰めながら、随分と近くに寄ってきた舞織に口をパクパクとさせる。



「大丈夫ですか?」

「っ、ち、近いっちゃ!」

「軋識さん」

「な、なんだっちゃ!」



舞織の柔らかな髪からは、ふわりと甘い香りが漂ってくる。

二の腕の、もう肩の辺りまで身を寄せてきた舞織は、悪戯っぽく微笑んだ。



「そういえば久しぶりに二人っきりですね」

「レ、レンもいる」

「そうですけど…こうやってくっつくの、久しぶりな気がします」



そりゃお前が暑い嫌だ鬱陶しいって喚くからだろうが、という言葉は呑み込んで、ああ、とだけ返した。



「ちょっとだけ…人識くん達が帰ってくるまでで良いから…甘えても良いですか?」

「……ん」

「へへっ」



上目遣いの舞織は、最強だと思う。


軋識は顔を顰めたまま、もう片方の腕を舞織に被せ、その細腰を引き寄せた。

距離が零になって、甘い匂いと柔らかな感触、温かさと一定の鼓動が伝わってきた。


舞織の手が、ゆっくりと伸びてくる。軋識の腕をなぞって、それから頬を撫でる。



「軋識さんて、肌綺麗ですよねえ」

「そんなん、お前だって」

「何か違うんですよ、天然モノっていうか…悔しいなあ」

「知らんっちゃ、そんなこと」



良いなあとのたまう舞織の手が、顎をなぞって、口元に行きつく。



「ひゃ」



銜えてほしいのかと思えば、違ったようだ。

唇をなぞる人差し指を口に含んで、ざらつく舌でなぞり上げて、犬歯でそっと噛んだ。



「んっ……え、えろいですね」

「あ?」

「いや、なんでも。指じゃなくて口にして下さいよう」

「じゃあお前からしろっちゃ」



指の根元まで舐めつくしてから離してやれば、いやらしく濡れる舞織の人差し指が、薄暗い部屋にぼんやりと光っていた。

その指を舞織が銜えて、先程軋識がしたように、今度は見せつけるように舌を覗かせて、根元から指先へと舐め上げる。



「えろく見えますか?」

「どう思う」

「ちょっと…目が怖いですね」

「分かってんなら、諦めろっちゃ」

「で、でも…んっ…!」



折れそうな腕を掴んで引き寄せて、頭の下に置いた腕で後頭部を押さえつける。

柔らかな唇に自分のそれを押しつけて、頑なに閉じた唇を舌でこじ開ける。



「ふ、む…っ」



吐息が漏れる、鼓膜が刺激されるようで、腰の辺りからぞわぞわと何かが這い上がってくるような感じを覚えた。


逃げる前に舌を絡め取って、ざらつかせながら吸い上げて、指にしたように歯で噛んで弄る。



「ん、ぁ…んん…っ」



歯をなぞって、頬の内側に舌を這わせて、嫌というほど吸いつくしてから、漸く離れた。



「は、はあ…はあ…」

「えろい顔」

「ひ、非道、ですね、…もう…!」



口の端に零れた唾液を舐めて、上唇と下唇を順になぞって舐めて、もう一度口付ける。

唾液を絡ませて口を開きながら角度を変えて深く深く苛めていけば、水の音が鼓膜を震わせる。

触れた舞織の腕は、鳥肌が立っているようで、ざらりとしていた。口の端からは唾液が零れ、目尻には涙が浮かんでいて、妙な加虐心を煽られる。



「きししきさ…、ン、んっ」

「ベッド、行かねえっちゃか?」



ちゅ、と、誘うように口付けて、耳元でそっと囁けば、舞織の体がびくりと震えた。



「でも…夕ご飯…」

「…お前……」



返すように口付けてくるくせに、そんな事をのたまう。

呆れたように軋識は眉を顰めるが、鼻腔を擽る良い匂いには敵わないらしく、雰囲気を壊すように二人のお腹が空腹を訴えた。



「あはは」

「あほらし…萎えたっちゃ」

「伊織ちゃーん、ちょっとお皿運ぶの手伝ってくれないかな」

「はーい、今行きまーす」



先程の色っぽさはどこへやら、普段の妹に戻ってしまった舞織に、軋識は脱力して、床へ頭を落とした。



「……軋識さん」

「何だっちゃ」



体を起こした舞織が、半身捻って軋識の胸板に腕を置いて、上に覆い被さって影を作った。

不貞腐れたような軋識に、舞織は苦笑いを零す。



「拗ねないでくださいよう」

「別に拗ねてなんてないっちゃ、早くいけ」

「もう」



仕方ないなあと、舞織は軋識に顔を近づける。

ふわりと擽る髪を耳にかけて、舞織はちゅ、と軋識に口付けた。



「甘やかしてくれてありがとうございます、軋識さん大好き」

「……」

「伊織ちゃーん、ちょっとお兄ちゃんピンチだよー!?」

「あ、はーい、今行きます!…っと……ん…」



鼻から抜けるような、甘い声。

萎えるだなんてとんでもない、口付ければすぐに軋識の与える口付けに頬を染める女の顔に戻るじゃないか。

腕を引けば、すぐに戻ってくる小さな体をギュウと抱いた。



「今夜、部屋で待ってろっちゃ」

「!いーやですよう!明日試験なんですよ、早く寝ます」

「無理矢理にでも組み敷いてやるっちゃ」

「!ばかしきさん!!」

「それはお兄ちゃんのことかな!?」

「あう!違いますよう、今行きます!」



軋識の腕から何とかかんとか脱出して、舞織は台所へと駆け込んだ。


軋識さんへのセクハラ抗議だのなんだの、聞こえてくるのを右から左へ聞き流しながら、手のひらを天井へと翳す。

今のは、逃がしてやったんだということを、知らないだろう。



夜に嫌というほど、教えてやるっちゃ、と軋識は体を起こした。

舞織が着ていたのだろうカーディガンを手に取り、台所へと足を向ける。



「変態は台所立ち入り禁止だよアス!」

「こいつが望んでたんだっちゃ」

「伊織ちゃんがそんな子なはずないだろう」

「ですよう!」



お皿を持った舞織の肩にカーディガンを掛けながら、ぎゃいぎゃいと言い争いが始まる。

そのうちに玄関からバタンとドアの音が聞こえて、外に聞こえてっぞと呆れ顔の人識と、寒そうな曲識が姿を現した。



「お帰りなさい、人識くん、曲識さん」

「寒い」

「ひゃおう!!つつつ冷たいですよう曲識さん!」

「たいしょー、俺のこと温めて」

「うおあああっつめてえええ!」

「ほらみんな、こんな狭いところでじゃれ合ってないで、運んで運んで、夕飯にしようよ」



そう言って、双識がリビングに電気をつける。

眩しさに目が霞んで、それから見えてきたのは、温かな…

夏解