軋識は困っていた。



「……はぁ…」



非常に困っていた。

×××

夢であってくれ 幻であってくれ この際、幻覚でも白昼夢だっても構わない !

だから 頼む!



と先程から十回以上は呟いたであろう心の叫びを胸に、軋識はチラリ と斜め下へと目線をやった。



「…………はあぁあ……」



勿論、そんなものは一種の現実逃避であり、フェムトほどの僅かな希望でしかない。


心の叫び、神頼み、現実逃避は、空しくも却下。



軋識の隣には、少女が並んで歩いている。

というよりは、軋識に引き摺られているようなものだったのだけれど…


ともかく、いるのだ。

少女という、酷く脆い生き物が自分の隣に。





『というわけでさっ』





ふわりとした体躯でその年不相応に妖艶な笑みが、自分を圧倒させる。


そんな年端いかぬあの少女を思い出すだけで、軋識はだらしなくも恍惚としてしまう。

けれど、今ばかりは、そんな気分には到底なれそうもなかった。





『ソレ、君にあげるよ』





久しぶりに会った自分の全ては、そう静かに言い放った。


まさかまさかの状況に、軋識が喜んだのも束の間。

指差した先に、この少女がいたのだった。


指を差された当の本人は、不思議そうに小首を傾げていた。





「はぁ…」



そこまで思い出したら、今度は自然に溜息が出た。



「…舞織、歩きづらいっちゃ」



隣を歩く舞織 ―イチイチ目線を下にしなくてはならない― に声をかけた。

…何だか、旋毛に声をかけているようで、心中とても複雑だった。



「!あ、う…ごめんなさ…」



その声に舞織はバッと顔を上げて、軋識の腕から手を離した。

と、重力に従うように、舞織はぺたりと地面に座り込んでしまう



「…あ、悪い……忘れてたっちゃ」

「……」



舞織はうまく歩けないらしかった。

というよりは、歩かずにいて、歩き方を忘れた と言おうか…

―歩くのに、上手い下手があるのかは知らないが― 微妙な下手さ加減だった。



そこで、ハタと気付く。



先程から自分は自分の事ばかり考えていなかっただろうか と。


自分ばかりを不幸だとして、溜息ばかり。

それを隣で聞いていた舞織は果たしてどんな気分だっただろうか…



そういえば、歩幅も狭いのすら忘れて、自分はどんどんと歩いていたかもしれない…



「舞織」

「は、はい!」

「手、繋ごうっちゃ」

「……でも…」

「な?」

「…はい」



一番不幸なのは舞織である。

なんせ突然に生活を狂わされるのだから…



「舞織…」

「悪かったっちゃ」

「?」

「頑張ろうな」

「?、?…はい」



ピタリ


大きな門の前で、軋識が足を止めた。


舞織も軋識に並んで、隣に立った。



「…!すごい」

「ははっ、中はもっと凄いっちゃよ」

「!」



目に入る一つ一つに、驚き感動し興味を示していた舞織は、大きな門を、何度も瞬きをして見つめていた。

そんな舞織を微笑ましく見ながらも、軋識の一部は、既に疲労を負い始めていた。



家は凄い。

だが、ここに住む人物はもっと凄いのだ、色々な面において。



けれど今更引き返す事は無理な話だった。


自分は決めたのだ。

戻る事を。


決めたというよりは、こうせざるより他に手がなかったと言おうか、思い付かなかったとも言うけれど…



ともかく とウダウダする気持ちを振り払って、壁につけられたインターフォンを…

押そうとして、何か凄い気配を感じて、そちらを振り返る。



「……押したいっちゃか?」

「!うん…!」



キラキラキラ! と瞳を輝かせて、興味深そうに舞織が軋識の手元を見ていた。


舞織では背が届かないため、脇に手をやって持ち上げる。



「そう、そこを押すっちゃ」

「えいっ!」



ピーンポーン


舞織を抱いたまま、軋識は、また一つ、失念していた事を思い出した。



舞織は、この年にして知るべき事を何一つと言っていいほど知らない。

多分、知らなくても生きて行く上では困らないような事は沢山知ってるだろうが…



舞織が上手く歩けないのも ―先程よりは歩けるようになったがまだまだ覚束ない― あまりに物事を知らな過ぎるのも、

全てを初めて見るようなのも、勿論、あのお方と日々を過ごしたからに違いないのだけれど…


このままにしておくわけにはいかない。



「…教育はレンに任せるっちゃ」



自分に躾やマナー、常識や勉強といった類を教えるのは不可能に近い話。

妹を欲しがっていたアイツを思い浮かべて、軋識は一人頷いた。



『はーい、零崎ですけどー?』



応答口から、声が聞こえる。


インターフォンの隣に付いている画面に映し出された人物に多少驚きつつも、ソレを微塵も出さずに不敵な笑みを浮かべてやる。






そうして、この少女の物語が始まる。