「…お水…」



喉の渇きを覚え、目を開ける。

闇に染まった部屋は、今まで闇にいた自分にとってはむしろ好ましいもので。

まだ眩暈の響く頭に気を使いつつ、何とか体を起こした。

マジで!!?

閉じられたカーテンの隙間、それからカーテンを通してぼんやりと光るネオンが、まだそう遅い時刻ではないと教えてくれた。

風呂に入ったのが夕方だったのだ、せいぜい九時というところだろうか…



「…っくしゅっ」



そう言えばタオル一枚巻いただけだった と冷えた腕に触れて、温めるように摩擦を行う。

思い出されてくる記憶の糸を辿りながらベッドを降りる。



「あ、水。と、パジャマもある。これは…お兄ちゃんですねー」



視線を彷徨わせれば、目的の水がコップに注がれ、机の上に置かれていた。

取りに近寄れば、パジャマも置かれていた。


気が利くのは、長兄と次兄である。

そして、このパジャマの畳み具合は長兄、双識のものである。

ちなみに三兄、つまり人識は、結構な鈍感な人だ。

気を使うのはどちらかと言えば苦手。物事をそつなくこなすが人との関係にはえらく不器用。



「……人識くん…」



朧気ながらに、何度も名前を呼ばれた気がする。

ほわほわと浮かんできたその顔に、段々顔が熱を持ち始める。



「………」



きゅるるるる



「お腹空いちゃった」



トキメキよりも空腹。

舞織はパジャマに袖を通し、濡れたシーツとタオルを引っ掴んで部屋を出た。





「おにーちゃん。と、きーししーきさん」

「…取って付けたように呼ぶなっちゃ」



眩しいリビングへ、目を細めてはいる。

開こうにも閉めようもドアがなぜか無くなっていたが、ソレに気にする間もなく、心配そうな顔をした双識が舞織に駆け寄った。



「具合はどう?」

「まだふらふらしますが大丈夫です」

「熱は…今は無いみたいだけど今日は早めに寝ると良い。食欲はある?」

「お腹ペコペコです」

「今温めてあげるからね」



手のひらで体温を測り、大丈夫だと確信したのか、ソファに掛けてあった膝掛けを肩に羽織らせ、座るように促した。



「…何か湿ってませんか?」

「そこはさっきお前が濡らしたっちゃ」

「ええ?!」

「人識も何か食べるかな」

「そうだ人識くん!人識くんはどこですか!?」

「あいつなら風呂場でノブの修理してるっちゃ」

「修理…?アレって人識くんの仕業だったんですか?」

「仕業っていうか、事故に近いようなものだよ。反省してるみたいだから怒らないであげてね」



ヴー…とレンジの唸るに混ざってしまい、双識の声がよく聞き取れない。


とりあえず修理という言葉で今更ながらにハタとする、そう言えばあのノブ、相当ガタきてましたよね…

そんな事を思いつつ、視線はついつい風呂場へといってしまう。



「ちょっと見てきます」



手にタオルを持ったままだった事も思い出し、舞織は風呂場へと足を向ける。



「……ひーとしーきくん」

「ッま、舞織…?」

「ですよー」



風呂場をちらりと覗くと、工具を手に持ち何かをしている人識の姿があった。

そろりと声を掛けるとビクリと肩が揺れる。



「もう大丈夫なのか?」

「お陰様で」



洗濯機の中へシーツとタオルを放り込み、ぺたぺたと音をさせて、しゃがんでいる人識の目線に舞織も合わせて座り込む。


人識の手にはドライバーと…どうやら新しいノブが持たれていた。


が、肝心ドア本体に大きな凹みが見られる、修理、するよりも買い換えた方が良さそうだなとぼんやり思う。



「本当に?」

「?はい」



眉を寄せて疑るような視線に目を合わせ、舞織は安心させるように微笑んでみせる。



「…そう……か…」



ほっと安堵の息を漏らす人識のその手に、舞織は自分のソレを重ねた。



「ありがとうございました」

「は?」

「人識くんの声、ずっと聞こえてたんです」

「……」

「嬉しかった」



だから、ありがとうございます と舞織は頭を下げる。


人識は黙ったまま、その手を振り解いて舞織に背を向けた。



「……あの、」

「…悪かったな」

「?いえ、だから、それは…」

「黙って聞け」

「は、はい」



ビッと太いネジを突き付けられて、舞織は思わず両手を上げる。


あ、いや…悪い と人識は持っていたネジを床に落とした。



「あんたが気絶してるの見て…すげー怖かったよ」

「え?」

「だから、ごめん」



ソッ と頬に手が触れる。

と同時に跳ね出した心臓、息する事が躊躇われて、舞織は息を潜めた。



「無事で良かった」

「…あ、ぅ…っ」



ふっと柔らかな笑みに、舞織の心臓はいよいよ破裂しそうなほどに飛び上がる。



「伊織ちゃーん。できたよー」



まともに呼吸もできないでいると、リビングから声が掛かった。



「い、行かなくちゃ…」



金縛りから解かれて、今度は誰かに操られているように体が勝手に動き出す。

よたよたと立ち上がってその場を離れようとすると、突然に手を掴まれた。



「っ」

「これで、もしあんたが…」



ち、近い!

ただその言葉のみが脳を占めた。


手を掴まれた事に振り返れば、キスしそうなほどの至近距離に人識がいた。



「風邪でも引くような事があったら…」

「……あ、ったら…?」

「俺が責任取るから」



頬に、何かが押し付けられた。

ソレは勿論、唇であるわけだけれど、突然の事に頭が追いついていかない。



「次はこんな事がないように一緒に入ろうぜ」

「…えっ?、あ…の……っ」

「さって…と。俺も飯でも食うかなー」

「ちょ、待っ…」



固まる舞織を無視して、人識は脇を擦り抜けてリビングへと行ってしまう。



「……………」

「ほらー、お前の分も食っちまうぜー」

「あ、う…それは駄目ですよう!」



弾かれたように、舞織は踵を返す。

鼻歌交じりに歩く人識の後追う舞織の後ろそこには修理されかけのドアノブがだらしなくぶら下がっていた。




ここまで読んで下さってありがとうございました。