『変わりモンっちゃな』


誰にともなくそう呟いて、きひひと笑う彼は、僕から見れば大層な変わり者に見えた。

曇りのち晴れ

軋識は、思い出したようにふらりと姿を消したかと思えば、忘れそうな頃にひょっこりと帰ってくる。

どこで何をしてるのか、それは家族のだれ一人として知るところではないし、知らなかったところで特に困ったことはない、と曲識は思う。

自分の人生だ、好きに生きたら良い、と。


好きに自分の人生を生きる彼には、二通りの戻り方があった。

何か良い事があったらしい時には包装紙からして高級そうな土産を持って戻ってくるが、何か嫌な事があったらしい時には世界の不運を一身に背負ったような表情で帰ってくる。


今回はその後者のようで。


今の軋識さんは水を失った魚のようですねと舞織が表するように、二ヶ月ぶりに戻ってきた軋識は魂ここに非ずの表情だった。


水を失った魚

それは即ち死を示す。

死は絶対で、遅かれ早かれ皆に平等だ。

だが、まだだろうと思う、お前はまだだろうと。


好き勝手に生きるのは構わないが、家に仕事を持ち込んではならないのと同じように、好き勝手した代償を家に持ち込んではならない、と曲識は思う。


こうしている今も何を考えているのか考えていないのか…帰ってきた時のまま、ベッドに腰を下ろしたまま軋識は窓の外へと視線をやっていた。

事実、軋識は何かを考えていたし、何も考えていなかった。

窓の外へ目をやっていたし、けれど見つめていたのは重い灰色の空でも暗く沈んだ街並みでもなかった。



「アス」



何もかもが無意味に思えたけれど。

曲識は開けたドアを、コンと手の甲で叩いた。開けておいて今更だけれど、これはノックだ。

お前へのノック、お前のノックだ。



「アス」



もう一度呼ぶ、今度は幾分強く。

軋識は漸く首を傾いだ、何だと虚ろな目が問い掛けてくる。



「レンが…人識も、舞織もそうだ。心配している」

「ああ、分かってる」

「音は嘘をつかない、お前はいつまでもそうしているつもりだな」

「ハッ、言ってろ」



元より言葉を交わす気などなかったのだろう、元より会話する気など。

吐き捨てるようにして軋識は眉を顰め、視線をまた戻す。戻すというよりも、今度は目線を力ない手へと落とした。


曲識はやれやれと肩を竦め、足を踏み入れる。



部屋は住み主の領地だ。プライベート、秘密基地。そこへ踏み込むのは、人の心への侵入だ。

案の定、入ってくるなと殺意に似た視線が飛んでくるけれど、そこは無視。曲識は口を開いた。



「アス、お前は元気でいなくちゃならない存在だ」

「…何だそりゃ」

「お前が笑わないと、この家は通夜のように暗い」

「だとしたら俺がいない日々は毎日が通夜っちゃな」

「その通りだ」



馬鹿馬鹿しいと呟く言葉には、早くどこかへ行けだの一人にしてくれだのという言葉が詰まっていた。

曲識は首を振る。


ギシリとベッドのスプリングが悲鳴を上げる。軋識の体が少し傾いたのは、曲識がベッドの端に腰を下ろしたからである。



「みんな、元気に見えるよう、振舞っていたよ」

「…」

「お前が帰ってきた時も、安心して戻ってこれるよう、元気に振舞っていたよ」

「ああ、そう」

「だからお前はそれに応えるべきだと、僕は思うんだ。家族への思いやりは、大事だよ」

「無理してでもか」

「向こうだって無理をしてるんだ、当然だよ」



曲識は言葉を紡ぐ。

途切れてはならない音のように、小さな呼吸で大きな言葉を紡いで奏でる。


軋識は笑う、小馬鹿にしたような笑みは、見慣れたソレである。



「みんなが色んな思いを抱えている、辛いならそれを吐き出したら良いんじゃないかと僕は思うよ」

「…」

「あの人がそうするように…」

「え?」

「いや。とにかくだ、アスはアスでいてほしい、じゃないと…」



じゃないと。

言い淀んで、曲識は視線を落とした。


今度は、ぎしりと曲識の体が傾いた、それは軋識が体を動かしたからで、曲識の肩を引いたからだ。



「何だっちゃ」

「そう言う人も悪い笑みも、悪くない」

「はぐらかすな」

「はぐらかしてなどいない、事実だよ、アス」



曲識は落とした視線を上げる、軋識の顔が、心なしか近くに感じられた。

心臓の音が少しだけ乱れて、だが、にやりと口を歪ませる軋識に安堵を覚えてしまう。


冷めた頬に触れる手は、普段と違ってひやりと冷たい。

確かめるように触れる手は、緩やかなウェーブのかかる髪に触れ、僕の心音を乱れさせた。



「お前がお前じゃないと、僕はひどく、困惑する」

「ああ」

「かといって、今のような状態も、心拍数が乱れてしまうので、困るのだけれど」

「知ってる」

「…弟に対して意地の悪い兄だな」

「悪くは、ないだろ」



顔が、近付いてくる。

少し躊躇するものの、曲識はその顔を避けて、立ち上がる。



「…もう、大丈夫そうだな」



そう言って振り返れば、信じられないとういう目つきで軋識がこちらを見上げていた。



「元気になったのなら、下へ行こう。レン達がお前のためにこっそりと何かを作っている」

「こっそりってことは、言っちゃまずいんじゃないっちゃか」

「……聞かなかったことにしてくれ」

「きひひ、馬鹿言え」



笑って、軋識はベッドへ体を預けた。

大の字にベッドへ倒れ込んだ軋識を見遣り、用は済んだらしい曲識は戸口の方へと足を進める。



「トキ」

「何だ」

「ありがとう」

「何がだ」

「……おめえの歌、ちょうど聞きたいと思ってたんだっちゃ」

「そうか、良かった。余計な事をするなと言われるかと思った」

「言われたらやめるのか、おめえは」

「愚問だな」



ありがとう と軋識はもう一度呟いた。

先程まで鉛のように重かった体が、飛べそうなほど、と言えば大袈裟だが、軽くなっていた。

心にあった重りも、いつの間にか消えていた。


いつ使ったんだと口を開こうとして、やめる。



「トキ」

「何だ」

「後で、もう一度、歌えっちゃ。拒否権はないが…良いっちゃな」



後で、もう一度、ここで、と軋識は体を起こして曲識を見遣る。

曲識は考える素振りを見せてから、頷いた。



「悪くない」



そう呟いて、ドアが閉まった。

軋識はもう一度体を倒して、白々しいほどに白い天井を見上げた。



「素直じゃないやつ」



天井が白々しいほど白いのは、重く沈んだ空に一筋の光が差し込んだからだ。

じきに、外は晴れるだろう。