主客転倒 1
このままではいけない と思った。

自分のためにも、アイツのためにも…


何とかしなくてはならないと…



ただ、それだけだったんだ…
主客転倒
長い髪が歩く度に、ふわふわ と右へ左へと揺れ動く。

ふんふん と上機嫌に鼻歌を歌いながら、長屋の廊下を歩いているのは善法寺伊作。


伊作は、一枚の紙を手の内に大事そうに持って、ある場所へと歩いていた。



「ふふっ、コレ見たら、もんじ驚くよなぁー」



今日一日だけで幾度となく眺めた手の内のソレを、伊作は嬉しそうに掲げて、もう一度じっくりと見つめた。

紙の氏名を読み上げて、その隣に大きく書かれた点数を半ば叫ぶようにして伊作は読んだ。



「六年は組、善法寺伊作、80点!」



自身の名前、その点数。

伊作は、ニヤ と口元を緩めて嬉しそうに破顔した。


これは今日返却された試験の答案用紙だった。

クラスで一番だと先生に褒められ、生徒から拍手喝采を受けた時を思い出して、伊作は答案用紙を、ぎゅう と抱き締める。



「やっぱり文次郎って凄いんだなぁ…」



これは今回、伊作に優秀な家庭教師が付いた賜物だった。

家庭教師というのは勿論、潮江文次郎に他ならない。


今回はどうしても落とせないという伊作の頼みを聞いた文次郎は、会計決算の時のような鬼の形相で地獄の試験勉強を彼に強いた。


そして地獄を切り抜けて、まるで天国にでも来てしまったかのような…

そんな気分に伊作の足取りは軽く、今にもスキップを始めてしまいそうだった。



「お礼に接吻でもせがまれちゃうかなぁ、なんて!」



今なら接吻以上の事もしてあげちゃいそうだ と伊作は不埒な考えを掻き消すように頭の上で、ぱたぱた と手を振った。



「…あれ?もんじいるんだ…」



い組の部屋へ繋がる戸へと到着し、伊作は足を止めた。

長い事一緒にい過ぎたせいか、それとも忍者としてのソレなのか、中に文次郎の気配を感じて伊作は引き戸に手を掛けた。



「もーんじ、入るよー」



襖をスッと開けて、その主を呼ぶ。

見えた背中に、伊作はいよいよ顔の綻びを隠せない。


じゃじゃーん と伊作は答案用紙を掲げてみせた。



「ねぇ、聞いて聞いて!私、今回の試験の点数がね、いつもの三倍以上だったんだ…!」

「先生にも久しぶりに褒められたんだ!私もう凄く凄く気分良くてっ!これも全てもんじが教えてくれたお陰だよ、ありがとうっ!」



伊作は、嬉しさと感謝と興奮を抑える事ができずに捲くし立てるように喋り切った。


それから漸く異変に気付いた。

当の本人、文次郎はボンヤリと机に肘を付いてどこか遠くを見つめていた。

というよりはどこも見ていなさそうな焦点の合わない虚ろな瞳に、伊作は何事かと首を傾げる。



伊作は、うーん と唸ってから、文次郎の前へと座り込んだ。

じぃ と目を凝視するものの…気付かない。


眼前に手を翳して、右、左、右……それでも気付かない。


放り出された手に自分のソレを重ねて……やっぱり気付かない。


伊作は、唇を尖らせて眉間に皺を寄せた。

人が良い気分でいるのに、感謝してやってるのに、何だよ と伊作は文次郎を睨み付ける。


そっちがその気ならこっちだって… と息を大きく吸った。



「潮江文次郎!!!」

「……!?っい、…伊作…!!?」



伊作の大声で、文次郎は大きく肩を揺らし、それから漸く伊作と目を合わせた。



「伊作!?じゃないよ…!もー、目ぇ開けたまま死んじゃったのかと…おもっ…」



ホッとしたのも束の間、文次郎は重なった手に気付くと、バッ と伊作の手を払い除けた。



「…っ痛っ、…もんじ?」

「―――っい、いつからそこに…!?」

「……さ、…さっきからいたよ?」

「そ、そうか……で?一体、何の用だ?」



どうしてどうしてどうしてどうして


ドクッドクッ と心臓が不自然に踊り出す。

グルグルと渦巻く疑問には、誰も答えてくれそうにない。


文次郎は、唐突に机の上の紙を片付け出してしまう。

穴が開くほど文次郎を見つめる伊作からは目を逸らしたまま、紙や布の擦れる音だけが大きく響く。



「…うん、…実は、ね…」



その手をもう片方のソレで庇うように握り締めて、伊作は無理矢理に笑ってみせた。


気のせいだ と思えない事を、強く、キツく、呪文のように、何度も何度も言い聞かせて。