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戻れない 戻らない
おわりのはじまり
降り注ぐ日はまるで誰かの笑顔のように暖かく、どこまでも広がる青空はまるで誰かの思いのように真っ直ぐで。


「あっ、おはようございます、夾君! 今日もお疲れ様です!」

「おう……って、あれ、他の奴らは」

「みなさん朝早くからお出かけだそうですよ」

とある町の、とある山奥、まるで姿を隠すようにひっそりと建っている一軒家。
見晴らしのいい縁側には結わえた長い髪を解く透の姿があった。

日課のように繰り返し繰り返し、晴れの日も雨の日も、台風の日だって欠かすことのなかった早朝のジョギング。
最初こそ、やれ鍛練だとかバカ鼠に勝つためだとか言い訳をつけていたけれど
今となってはそんなものは建て前に過ぎず、すっかりと習慣づいてしなければ落ち着かなくなってしまった。

体力もすっかりとついて、身長も体重もぐんと変わり、子供から大人へと身体は成長していく。
息切れることもなくなってからは走る距離がどんどんと伸びていき
早朝の小鳥の囀り涼しく走り始めても、人々が活動を始める頃にはすっかりとこの季節らしく暑さが肌を襲う。
額から頬へ流れて伝う汗を袖に拭いながら、静まり返った建物を見上げていると
透はそれに気付いて立ちあがり、パタパタと小走りに脱衣所へ。

タオルはいらねえぞなんて言う暇もなく、気のきく彼女は案の定真っ白なタオルを持って戻ってきた。

「京君、汗が……もう、すっかり夏ですね」

「ん、そーだなあ」

縁側に並べられたサンダルをつっかけて近づく透に己も歩みを進める。
長い髪がさらさらと動きに合わせてくれ、涼しげに目に留まった。
あの髪に触れて良いのは、これから先はきっと自分だけである。
そう思えば一本一本さえも愛しく、眩しく。

「……えっと」

「ん?」

タオルを手渡そうとする透に向け、僅かに身を屈める。
これが許されるのも、きっとこれから先は自分だけ。

独占と優越、幸福と充足。
しかしそんな自分の意図を分かり兼ねてか、困ったように眉を下げる彼女に笑いかける。

「何だよ。拭いてくれねえの?」

「! あ、う……し、失礼します……」

意地の悪くも甘えるように、上目に見やる。
自分だけの特権である、これから先はずっと。
彼女に甘えることも、彼女からの真っ直ぐな視線も。

透はやっと理解したのか、真っ赤になりながらたどたどしく手を伸ばしてきた。
袖から伸びる包帯は日に日に控えめなものになっていき、それを見るだけで胸の中で安堵が大きくなっていく。

優しく、額やこめかみ、頬の汗を拭きとる姿を見つめながら、込み上げる至福に笑みを零す。
真っ赤になっていた透もそれに気付いて表情を和らげてくれた。

今日も幸せな一日の始まりである。





「今日はどっかいくか?」

「あっ、は、はい! 夾君どこか行きたいところはおありですか?」

「おまえは? どっかあるか?」

二人で遅めの朝食を取るようになったのは、夏休みに入ってからの習慣になった。
ジョギングの帰りを待たなくても良いと言っても、一緒に食べた方がおいしいからと言って
変なところで頑固な透は譲らず、それからの日々である。

食べ終えた食器を片づけ、二人きりの室内。
長いながらも限られた自由を謳歌せずにどうすると透へ声を掛けると
彼女はエプロンを解いて、ううん、と天井を仰いだ。

「そうですねえ、卵とお肉がそろそろ無くなりそうなのですが」

「……」

「? 夾君?」

「……おまえ、分かってないようだし言うけど、デートだかんな?」

「!!! あっ、あああぁあああ、も、申し訳ありません! わ、私ときたら考えが至らず!!」

初めて会ったあの日から様々なことがあって、泣いて、叫んで、喧嘩して、すれ違って
絶望を味わいながら、もがいて、苦しんで。
やっと得られた互いの存在。
呪いを刻むように腕に嵌めてあった数珠はもうないというのに、癖のようにそこを撫でながら
再び真っ赤になった透の頬へと手を伸ばした。

「もうちょっと、彼女の自覚をもってもらえるとありがたいんだがな?」

「あうう……す、すみません……なにせ、お付き合いというものを経験したことがなくてですね……」

「いやまあ、それはむしろ俺にとっては嬉しいことだが…」

何よりも誰よりも、他人を優先する彼女。
そんな彼女の特別になれた自分。
一度手に入れてしまえば、秘めていた欲はそこなしに溢れだし、彼女へと一心に向けられる。
もう縛るものは何もない、遠慮も必要ない。
好きな時に触れて、好きな時に抱き締めて、好きな時に―――

「よし、じゃあ今日はちょっとトクベツなこと、するか」

「え? 特別なこと、と申しますと……?」

「こういうこと」

「ひゃっ!??!」

彼女の真っ白なワンピースに皺が寄るのも気にせず、横抱きにして立ちあがる。
突然安定感を失った透が首に抱きつきながら慌てふためくのを笑いながら
誰にも邪魔されぬように二階へ。
夾君、夾、君!? と焦ったような声を耳に聞きながらむずがゆい思いを重ねて、透の部屋へと入り
行儀も悪く後ろ足に扉を閉めた。

そのまま綺麗に整えられたベッドへ透を寝かせ、そのまま自分も覆い被さるようにベッドへのし上がる。

「今日は一日、お前とこうしてる」

「え、えええっ」

「何だよ、嫌なのか? あ、汗臭いか、俺が」

「いいえっ、いいえそんな事は…! ただ、その、突然過ぎて驚いてしまったといいますか、決して嫌なわけではなく
その私はこういったことに慣れておりませんので心の準備といいますか…むぐ!」

「わぁーった、ははっ、分かった。じゃ、とりあえず、一つずつ、な?」

恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに思いを向ける透の唇を覆う手を外し
その手をそのまま、透の指に絡めた。
透は真っ赤になりながらそれを見つめていたけれど、やがて指に少しだけ力が込められる。
互いの手で祈りを捧げるような、そんな形になりながらゆっくりと笑みを浮かべた。

「おまえの手は小せえなあ」

「夾君の手は大きいですね」

「皿洗ったからか、なんか、あったけえのは」

「ふふ、おなじ洗剤のにおいがしますね」

他愛もない会話、それが途方もない幸せを生む。
許されるはずのなかった未来、叶うはずもなかった関係、
透の部屋の棚に飾られた数珠に許された全ての希望。

大きな瞳に自分の姿が映る瞬間を、体と体が触れ合う熱を、夢にまで見た思いを。

「透……」

「夾、く……っ」

もう幾度目ともしれないキスも、すればするほど身を震わせる多幸感となる。
初めては、透の意識がないまま願うように口付けた。
二度目は、互いの思いを漸く重ね合わせて泣きたくなるようにして口付けた。
それからもう何度も何度も、透は恥ずかしがりながらも懸命に応えようと目を閉じてくれる。
それでも緊張に身を固くするものだから、瞼や頬、それから鼻や額に触れてから
ゆっくりと唇に触れる。
じんわりとあたたかく、柔らかく、相手の匂いを感じながらゆっくりと離れると、透は恥ずかしさを誤魔化すようにえへへと笑った。

「夾君との、その、キスは…不思議ですね」

「ん?」

「心が、きゅーってなるんです。夾君の瞳に私が映って、沢山、キスをもらって
次に目を開けても夾君は笑っていて、私はそれだけで泣きそうなほど、嬉しくなります」

「うん」

「大好きです、夾君。誰よりも、何よりも、大好き……」

師匠が願ってくれたこと、道端に咲くたんぽぽの花のようにちっぽけで頼りなくて
どこにあるかも分からないほど沢山咲いているそれが、自分に微笑みかけてくれたこと。
諦めた自分を拾って、大好きだと言ってくれること。

嬉しくて嬉しくて、枕に広がった髪を優しく撫でながら、ありがとうと囁く。

「俺も、大好きだ、透」

もう数え切れないほどのキスをまた重ね、それから互いに微笑み合う。
すると不意に、階下で扉が開く気配がした。

「たぁ〜だいまぁ〜、透く〜ん、夾く〜ん」

「あれ、バカ猫も帰ってるの?」

「そうみたい、ほら靴が……夾くぅ〜ん、透くんにやらし〜ことしてないで下りてきなさーい。スイカ買ってきたよ〜」

気のせいではない、そう甘い雰囲気にもさせてくれない声が階下から聞こえてくるのに脱力する。
眼前には愛しい人、真っ白な首筋、それから柔らかな身体に、優しい声があるというのに。
もう離れねばならないらしい。

退院までの間、散々に焦らされ、そこからも透を独占する権利を得るまでに時間を要したというのに。
やはりどこかへ出掛け、そこで触れ合うべきであったか。

「…………っっ!!ったく、あいっつらは……」

「ふふっ、行きましょうか、夾君」

「そーだな……」

彼女を起こし、二人で部屋を出る。
怪しまれようが冷やかされようが、もうこの関係は周知なのである。
多少は我慢するとして、我慢ならないならばそれはそれとして。

「あ、透」

「はい…? わ、っとと……」

やっぱりもう少しだけ、惜しいからと彼女の手を引く。
華奢で白くて、繊細な、壊れてしまいそうなか細い身体。
抱き締めて分かる彼女の脆さからは分からない、真っ直ぐで力強い言葉にどれほど救われてきただろうか。
腕に抱いて髪に触れ、首筋に顔を埋める。
控えめに背に回る手に安堵して、もう一度キスした。

「やっぱ、後で出掛けようぜ」

「はい、どこへでも、夾君と一緒にいたいですから」

「おう」

大好きな笑顔に、大好きだという笑みを返し、今度こそ二人で一階へ降りていく。
去り際に眺めた数珠も、それから彼女の母の写真も、そして十二支と猫の置物も、
まるで行く末を見守るように差し込む日差しにきらきらと輝いていた。

始まったばかりの夏、始まったばかりの宴会はこれからも賑わいながら続くのだ。