陰に陽に
ぴぴぴぴぴ バシッ ぴぴっ 「…うー……まだ眠いー……っけど、起きなくてはっ!」 目覚ましのアラームに叩き起こされてから二十分間、姫乃は忙しなく動き回って支度をする。 まだまだ着慣れない制服に袖を通して、寝癖がついた髪を梳かして、脱ぎ散らかしたパジャマと布団を仕舞って、鞄の中身をチェックする。 そうしてその鞄を持って、漸く部屋を出た。 「お、今日はちょっと余裕があるかも」 階段を軽快に下りて台所へと歩く。 腕にした時計の針の表示に、姫乃は小さく微笑んだ。 「…さぁって、ちゃっちゃと明神さんの朝ご飯作っちゃわないと」 そう意気込んで、暖簾をくぐる。 と、シンクに佇む一人の男が目に入った。 見慣れたその後姿は紛れも無い、犬塚ガク、通称ガクリンだった。 「……ガ、ガクリン?」 「ひめのん」 姫乃の驚きの声に、ガクはゆるりと顔を動かした。 淡々とした声で、けれど語尾にきっちりとハートを付けて名前を呼ばれる。 愛されてるなぁ… と姫乃は心の内で小さく苦笑いを零した。 「お早う、どうしたの?こんな朝早くに」 「…ひめのんの一日がオレの顔を見る事で始まったら良いと思って」 「…あ…はは、は…」 持っていた鞄を椅子に置いて、代わりに掛けてあったエプロンを手に取る。 細々と喋るガクの隣に立って、勝手知ったる何とやら、棚からフライパンを取り出した。 「っていうのは嘘で」 「嘘なの?」 コンロに火をつけていると、そんな声。 思わず見上げれば、ガクは頬をほんのりと赤く染めた。 「嘘じゃないけど」 「どっちなの?」 本気で冗談をかますその表情は変わらずに無。 それがおかしくて、くすくす と笑う姫乃を、ガクは、じぃ と見つめる。 「ねぇ、本当にどうしたの?」 直視できないその熱視線に気付かないフリをして、姫乃は冷蔵庫から卵を一つ、取り出した。 「……本当は」 「うん」 フライパンに手を翳す。 手に当たるその熱を確認してから、姫乃は卵をボウルに割り入れて、溶いてフライパンへと流し込んだ。 「ひめのんの弁当を――…」 「お早う…」 後ろから声が掛かる。 寝ぼけ眼に目を擦るそのエージの姿に、姫乃はそちらを振り返った。 「お早う、エージ君」 「んー」 その一言に小さく頷いて、、エージは台所から姿を消した。 ぶっきらぼうで恥ずかしがりやで、それでも律儀に朝の挨拶を欠かさない、そんな純粋なエージは、これから日課の朝の素振りを開始するだろう。 良い子だなぁ… 微笑む一方、ハタと思い出してガクの方を振り返った。 「…で?ガクリン、本当は…何?」 「…ひめのんの………」 「私の?」 そこで切って、悩む。 言おうかどうしようか、それとも何と言えば良いのか迷っているのか、無表情だからちっとも分からない。 続きを促せば、ガクは姫乃を見つめて頷いた。 「弁当を作ってあげようと思ったんだ」 「…え?」 「でも…触れないのを忘れてた」 「それで…ずっと?」 ずっと、悩んでた。どうしたら良いのか と、ガクは、ぽつりぽつり と言葉を零した。 ジュワー と卵の入ったフライパンが、油と火によって激しい音を立てる。 「ガクリン」 けれど、姫乃には、そんな事は、もう頭に入ってなどいなくて 「……」 ガクを呼んだ姫乃の表情は、今にも泣きそうなソレに似ていて、ガクは内心、酷く戸惑っていた。 「少しだけ、しゃがんで?」 姫乃の言葉にガクは首を傾げ、けれど何の疑いも無く、従順に姫乃に目線を合わせた。 ソレを貴方が望むのならば と 「目、…閉じちゃイヤだよ?」 「?」 自嘲するような笑顔に、ガクは声を掛けようとした。 けれど、何を掛けたら良いのか、どうしたら良いのかも分からずに、結局ただ黙って頷いた。 ソッと、姫乃が距離を詰める。 あまり近づくと擦り抜けてしまうから、目を凝らして腕を伸ばして。 ガクの頬に手を添えて、目を細めて、そぅっと、頬に口付けた。 「うれしい」 そうして、遂に頬を伝ったその雫は、綺麗過ぎて、拭うという行動を、ガクの脳は下さなかった。 けれどその代わりにと、ガクは静かに微笑んだ。 その後、外から掛かったエージの、焦げ臭い という言葉まで 二人はただ黙って、黙ってひたすらに… ひたすらに…… 06.06.18〜06.08.07間の拍手お礼/06.10.11UP |