不意に涙が止まらなくなる日がある。

カタン…

静寂を保った部屋に大きく響いたその音に、伊織は小さく息を吐いた。


眉間が痛くなる眼鏡をソッと外して、ソファに凭れ掛かって腕で顔を覆った。



「…分かんない」



そうしてまた部屋に広がっていたその声に、伊織は苛立たしげに唇を噛み締める。



「ああ、やっぱり伊織ちゃんだった」



突然背後から声がして、伊織はビクリと体を竦めた。

半身捻ってそちらへ顔を向ける。



「……お、お兄ちゃん…」

「こんな遅くまでお勉強かい?学生は大変だね」

「ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」

「まさか」



明かりが漏れてたから気になってね とドアから顔を覗かせた双識が中へ入ってくる。

ニコニコ と微笑んでいる双識に、伊織は俯いて眉を顰めた。


伊織は双識の纏う穏やかな雰囲気が好きだった。

けれど今ばかりは自分の事で手一杯、今だけは…放っておいて欲しかった。



「試験勉強、捗らない?」

「はい、中々…思うように進まなくって…」

「頭の良い伊織ちゃんが捗らないなんてよっぽどなんだね」

「ちっとも…よくなんかないです…」

「ふむ…そうだ、じゃあ紅茶でも入れてあげようね、頭がスッキリするよきっと」

「い、いらないです、お兄ちゃん寝てて良いですよ」

「うん」



ちゃんと寝るから心配いらないよ と双識は言ってのけ、キッチンへと入っていってしまう。


もうそれ以降、伊織が何を言っても双識は、ああ、だの、うん、だのと言って聞いているのかいないのか…


そんな事は日常茶飯事なのに、今日ばかりは苛々としてしまう。

一人になりたいって思ってるのが伝わらないんだろうか、それとも分かってて知らぬふりを…?


そんな事さえ勘繰る自分がいる。


ああ、どうしてうまくいかないんだろう。

勉強も、こうして願う、兄に今だけは傍にいて欲しく無いという思いも、兄の親切を勘繰る自分の感情も…

もう、何もかも…



「…う…」



ぽた

と紙面に書かれた鉛が、じわ と滲んだ。



「ひっ、ぐ…」



視界も、揺らぐ。

隅に見える兄の後姿も。



「うえええぇ…ん…」

「…伊織ちゃん?」



どうして自分はこんなにもちっぽけなんだろう…


そんな疑問に答えてくれる人はいない。

ただ自分が、悔しくて情けなくて…悲しくて苛立たしくて…



「…溢れちゃったね」

「…ひっ…う、ぐ……」

「我慢するな、伊織」



自分の嗚咽に混じって、ぱたぱた と音がした。

すぐに温かいソレと力に押されて、体が傾く。


抱き締められた事に漸く気付いて、伊織は更に涙腺が弱まるのを感じた。



「ふええぇぇぇ…」

「そうそう、泣きたい時は泣くのが一番だよ」

「うああぁああん、ああああぁ…」

「大事なのは泣いた後にどうするかなんだ、伊織ちゃん」



不意に、ピー と音がして、双識は一際強く抱き締めて、伊織から離れていってしまう。



「お、にいちゃ、…」

「はいはい、ちょっと待ってね」



縋る先を無くして、伊織は床に項垂れる。

と、間も無くして甘い匂いと共に双識が戻ってきた。


伊織は手を伸ばして、双識の服を掴み力任せに引き寄せる。

頭の上で、うおっ と声がしたが気にせずに、ぎゅう と抱きついた。



「…伊織ちゃん、まるでくっつき虫みたいだよ」

「妹を虫に例える兄なんて最低…」

「うふふ、冗談が通じない妹だねぇ…ほら、これ飲んで」



ほらほら と促されて、両手にしっかとカップを持たされる。

中にどろりと茶色く濁るソレがまるで今の自分のようだった。



「飲んで」

「…ええぇ…?」

「飲みなさい」

「……うぅ…」



折角涙を流して中の物を吐き出しかけたのに、ソレをまた自分の中に戻すようで嫌だった。

それでも双識が半ば強制的にカップを持ち上げてくるので、伊織は意を決して口の中へと含んでいった。



「………っ、!……あ…」

「あ?」

「……甘い…」

「それはホットチョコレートだからだよ」

「…チョコ、ですか」



どろりとしたソレはまるで今の自分そのもの。

ただひたすら飽き飽きするほどに甘い。

けれど…



「人識のチョコ使っちゃったから内緒ね」

「ええ!?バレたら買いに行かされちゃいますよう」

「そしたら一緒に買いに行こうね」



けれど…


まるで双識さんのようでもある。

ただひたすら泣きたくなるほどにわたしに甘い。




ちなみに、軋識さんだったら、泣き止むまでずっと抱き締めててくれるんだよ。
あの人は気が利くような事できないから、どうしたら良いか分からないんです。「…泣くなっちゃ…」って、ぎゅー。
人識くんなら、とことん甘やかしてくれるかな。どうだろう…
「そうだよなー、悲しくなっちゃうよなー。でもなー、こんなん分かんなくたって生きていけるからなー」ってぐだぐだ。

って考えるとこういうのは、やっぱお兄ちゃんが適役ですね、うん。
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