ピアノバー、クラッシュクラシック。


この町に住む人々のどれほどがこの店を知っているだろうか。


恐らく一割にも満たないだろう。

この店は、主の性格によく似て、表立つことを嫌う。


その類稀なる美しさと才能を、鷹以上に隠したがる。


隠された秘密を暴きたくなるのが人の常。

静かなその心音を乱したくなるのが人の性。


私はこの感情を、そう考えることにしているのですよ。

名前を付けるならば、そう…―――

amarezza

細見の男一人がやっと通れるほどの狭い階段を下りた先に、それはある。


薄暗い電球に照らされたドアを握れば、冷たい冷気を纏ってひやりと冷たい。

そのノブを掴み、押し開いて短い廊下を進む。


その先の景色は、もう見慣れているものであったにも関わらず、自分に言い知れぬ高揚感をもたらしてくれる。

薄暗がりの中にぼんやりと光る小洒落た電球も、広い室内にぽつんぽつんと置かれたテーブルと椅子の位置も、床よりも一つ高い台の上に置かれた黒い塊、グランドピアノも、全て全てが興奮作用のようにして五感を刺激する。


けれど自分自身でそれに目を瞑り、癖のようにしてしきりに右へ左へと目を動かす。

その様子は、かくれんぼの鬼そのものにも見える。

だが、鬼の探す子はどうやらこの部屋にはいないらしく、鬼は落胆の息を吐いた。



openと書かれた板がノブに掛けられたような気がしたのですけれどねと視界の端に映ったおぼろな記憶を浮かべながら積雪は首を傾げた。


そうして世界の全てを映す片目は、室内の奥へと動く。

奥から呼ばれているような気がしてそちらへ足を進めれば、綺麗に磨かれた床を擦る草履の音だけがいやに響いた。



「曲識くん?」



この店の主の名を呼んで奥のドアに手を掛けた。

スタッフルームと書かれたドアを開けるのは、本来この店の主である曲識と従業員のみなのだが、好き勝手していいと以前許可をもらって以来、言葉に甘えて好き勝手させてもらっている。


ドアを開けた先は、先程の場所と同じように暗い空間が広がっている。

出入りし慣れた空間、夜目に慣れた片方の目が足元に置かれた靴を映した。

シンプルで上品な形をしたその靴は記憶違いでなければ、今自分が探している主が気に入っているものだと教えてくれたものだが…


店の入り口同様、狭いドア口に積雪は体を入れ込んで屈み、草履を脱いだ。

そうして一段高い部屋へと足を踏み入れる。

ひやりと冷たいフローリングを少し進むと、足場は足袋に心地よい感触へと変わる。

そのまま壁に手を触れながら、足を進ませれば、目当てのものに手が触れた。


積雪は凹凸のあるスイッチに触れ、ぱちりと音をさせる。

二度三度ちかちかと光が点滅し、それから部屋全体が明るくなる。


ぱっと明るくなった部屋には、畳が敷かれている。

小さな丸テーブルの隣には、違和感たっぷりに置かれた大きな大きなベッドが置かれている。

部屋の端から端まで占領したベッドは、存在を強く主張しているようだった。

畳が傷むと何度言ってもきかないせいで、重みを背負うベッドの脚に、畳が少し沈みを見せている。


何ともアンバランスな部屋に一人、ベッドに上半身を預け静かな寝息を立てている者がいた。



「曲識くん…」



シックな色合いの燕尾服は、更なる違和感をこの部屋に与えている。

すらりとした体を折り曲げて、すやすやと眠る曲識の隣に積雪は跪く。


緩やかなウェーブを描く長い髪は床に散らばっている。

顔に掛かった一房をそっとどかすと、くすぐったさを感じたのか曲識はぴくりと眉を動かした。

その様子に小さく微笑んで、積雪は腰を下ろして周りを見渡し、息を吐いた。



「……やれやれ……あなたは片付けるということを知らないのですか…?」



荷物を置こうとして、スペースが自分達の周りにしかないことに気付く。

以前訪れた際も似たような散らかりようだったことを思い出し、積雪は肩を竦めた。



「おや」



ベッドが大半を占めるこの部屋に置かれた丸テーブル、その上には先程誰かがいた証拠として二つのティーカップが置かれてあった。

和室の部屋に置かれたティーカップの違和感も中々のものである。


一つは曲識の座る向かい側に置かれてあり、こちらは飲み干してある。


食事と睡眠にしか使用しないこの部屋に上げるということは顔見知りか身内か…


思案して、胸の内に小さな靄ができたような気がして、積雪は静かに頭を振った。

馬鹿らしいですねと自嘲して見回すと、ベッドの上に丸まっている塊が目に入る。

寝ている曲識越しに手を伸ばし、手元へと引き寄せた。



「……………」



靄の大きさが二回りほど、大きくなったのは、間違いでも気のせいでもないだろう。

両手で広げたその塊は、俗にセーラー服と呼ばれるものの衣類の上着のようだった。

見遣ればベッドにはまだ塊が残っているが広げずとも分かる、プリーツスカートであろう紺色のそれも引き寄せて、上着と並べ畳の上へと置いた。


深い赤色をしたスカーフが緩く結ばれたそれとまだ夢の中にいるのか曲識とを交互に見遣り、もしやと積雪は眉を顰めた。

彼の趣向は知っているが……いや、人の趣向にどうのこうのと口を出すつもりはないが……


けれど、私がくると分かっている日に敢えてそういうことをするのはいかがなものでしょう…


積雪は自分の中で大きくなる靄を止められず、セーラー服を置いたその手で曲識の肩を揺らした。

黒く渦巻く靄が、自分の思考を鈍らせる。



「曲識くん、曲識くん…起きてください、睡眠を取るにはまだ少しばかり早い時間かと思いますよ、いえ、あなたがどう過ごそうと私には関係のないことですけれど」



ですがやってきた友人を前に、その友人を放置なさるおつもりですか。

そう呼び掛けたところで、曲識がうっすら瞳を開ける。


藍色の瞳が空を彷徨って、それから積雪を見つめた。



「……積雪さん」

「今晩は、それともおはようと言うべきなのでしょうかね、曲識くん」

「皮肉はよしてくれ、あなたらしくない」

「私らしいとは何でしょうね」

「積雪さん?」



曲識は優雅な所作で体を起こした。

積雪の手元へ目が降りて、あと声が零れた。


とても綺麗な、心臓が歓喜するような短い感動詞。



「ああ、すみません、気になって拝見してしまいました」

「いや、悪くない」

「いいえ、申し訳ないです、女性の服を、男であるしかも他人の私が触れることは不快でしょう」

「…?これはレンが持ってきたもので別に」

「レン……と愛称で呼び合う仲なのですか…ふふ、仲睦まじいのですね、羨ましい限りです。いえ、別に私はあなたと愛称で呼び合いたいわけではないんです、愛称が仲睦まじきの全てというわけではありません」



ただと積雪は言葉を置く。


一体何がどうしてしまったのだろうか、彼はこんなに饒舌だったろうかと曲識は首を傾げる。

けれど口に出すことはなく、次の言葉を待った。

曲識の言葉の大半は、彼の心中で消えていく。


積雪は目を細め、先程触れたことを詫びたその服へと手を伸ばした。



「ただこうして、これが置かれてあるということに、私は嫉妬の念を抱きざるを得ないのです」

「…え…?」

「ふふ、嫉妬ですよ。いい年をした男がみっともないでしょう。幻滅をされてしまわれないかと私はとても不安です」

「積雪さん…」

「良いのです、私本人が幻滅しているほどです、傍目からはもっと無様に見えるでしょう。
ですが言わなくてはもっと無様になり下がる気がしまして…」

「積雪さん、聞いてほしい、これは別に…――」

「私は、常からあなたの言葉を聞いていたい、声を聞いていたいと思っています。しかし今は叶いません、受け付けません。心が拒絶をしています。あなたはこの服を一体どうしたのでしょうか、少女が着、それを殺したのでしょうか…いえそれではこの色、穢れなき白は有り得ません、有り得るのかもしれませんが、私はその可能性をあえて否定しましょう。ではどうしたのでしょうか、殺した…のではなく生かしたのですか…それとも、愛したのですか?しかし、これを着たのが相手とも限りません、あなたが着たという可能性も捨ててはなりませんね、考えられるものには全て可能性があるのですから。あなたが着、愛されたのでしょうか…私が見も知らぬ誰かとこうして…肌に触れ、口付けたのでしょうか…」



積雪はそこで言葉を切って、自重気味に笑ってみせた。



「ふふ、おかしいですね。あなたがどう過ごそうと私には関係のないことだと思っていたのですが…いえ、今もそう思っています、これに嘘偽りはないはずなのですが、どうも胸の中が重い、重く苦しく、苛立たしい…」

「積雪さん…」

「そうですね…あなたにこんな趣味があるとは私も知りませんでした、宜しければ私にも着て見せては下さいませんか?恥ずかしがることはありません、きっととてもお似合いですよ」



本当に、彼はどうしてしまったんだろうか。

酔った時でさえ、こんなに饒舌になった姿を見たことがないというのに。

今はまるで素面だというのに。

それなのに、酔ったように座る目は、うっすらと赤い頬は一体彼をどうしてしまったのだろうか。


言葉のおおよそを聞き取れずに終わってしまったことにはたと気づく。

眠気覚ましなのか眠気を誘っているのか、息つく間もなく述べられた言葉はまるで曲識の知らない他国言語のように聞こえたので。


けれど曲識にはそんなこと、二の次であった。

彼にしてみれば、その音が怒っているのは明々白々であり、大切なのは…大事なのはその部分であったので。



「……分かった」

「ありがとう、あなたのそういう素直なところが私は好きですよ」



曲識の了解の言葉に、積雪の心音が僅かに安定を見せ始めたことに曲識は安堵する。

それはなぜ安堵なのか、決して彼の怒りを恐れているわけではなかった、そもそも怒る姿というものを見たことがなかったし、怒られてみたいと思ったこともあるほどである。


曲識が恐れていたのは、彼自身知り得ぬ感情であったが、それは…――


とにかく、曲識は安堵し、のそのそと体を動かした。

積雪が半歩後ろに下がって正座をしたので、その場所も借り、上着をベッドの上へと雑に脱ぎ捨てる。


繊細な服なのですからもう少し大事にされてはいかがですかと、彼らしい意見にさらなる安堵を感じながら、そうかと服に手を伸ばす。

手に取った上着をどうするか考えあぐねていると、積雪が手を差し出した。



「畳んで差し上げます」

「悪くない」

「重畳ですね」



積雪は、自分の膝の上で上着を広げ、慣れた手つきで小さな形へと折り畳んでいく。

手渡されたシャツもズボンも、皺無くズレ無くきっちりと畳み、自分の脇へと積み上げた。


そうされている間、曲識は脱いだ代わりに短いセーラー服を頭から被り、丈の短なスカートに足を通した。



「そうですね…なんというか…やっと違和感のないものに出会えて心持ちです」

「つまり」

「悪くない、ということですよ」

「重畳だな」

「ええ、とても可愛らしいですよ、殺してしまいたいほどに」



上下着終えたところで、積雪は嬉しそうにはにかんだ。

一方の曲識は落ち着かないのか、しきり裾を下へと引いている。



「寒いですか」

「いや…世の中の女性はこんなものを履いているのかと」

「そんなものでしょうね」



積雪は服には大して興味がないのか、適当に頷き立ち上がる。

着物の裾を踏まないように丁寧な所作で立ち上がる様は、流石というか慣れている風で、とても様になっていた。


積雪は変わらぬ笑みで、手を伸ばし曲識の肩を押す。

ベッドに座れという意図を汲み取って、曲識はベッドの端へゆっくり腰を下ろした。


視線の交わりが上下逆転したところで、積雪はおもむろに、胸元で結び目の解けかけたスカーフへと手を伸ばした。

立ったままの自分を見上げる曲識に小さく微笑んで、そのスカーフを抜き取り、手の中で弄ぶ。



「あなたは、こういうことが、お好きですよね」

「悪くない」

「ええ。そうでしょうね…その方には、してもらわなかったのですか?言い出せませんでしたか?それとも私でないともう満足できませんか?だとすれば、嬉しい限りですね」



ここまでくれば、積雪の饒舌も気にならなくなってくる。

曲識の視線も意識も、全ては積雪の行動の一端一端へ注がれる。


積雪は曲識のその真っ白な首を撫で、それから伸ばしたスカーフを曲識の首へとゆるりと巻き付けた。


肌の白さに深い赤色が映えますねと呟いて、細い首に持て余し気味のスカーフの端を引いたり緩めたりを繰り返す。

曲識は目を細め、どこか恍惚としたようにすら見える表情で、息を詰める。



「あなたは不思議な方ですね…」



言いながら、積雪は手の内のスカーフを引いていく。

少しずつ籠もっていく力に、曲識の首へ幅を細くしたスカーフが食い込んでいく。


曲識は特に抵抗するでもなく、変わらず目を細め、時折苦しげに息を漏らすだけだった。



「気持ち良さそうですね、首絞めはある程度を超えてしまうと快感になってしまうと言いますが…そうやっていつだってされるがままのあなたのことは、嫌いではありません。何を考えているのか分からないところだって嫌いではありませんが…時と場合によっては…不安になるものですね」



不安。

その言葉に、曲識はそこで初めて目を丸くした。


積雪は手の力を緩め、スカーフを取り払う。

小さく咽返る曲識の顔に触れて上を向かせる。



「あなたが、好きですよ」



言って、薄い唇にそっと口付けて、スカーフの痕の残る首筋に舌を這わせた。



「ぼ、くは…」



ぞくりとしたのは告白にか首を這った舌にか。

曲識は小さく息を詰め、それから短く吐き出した。



「僕は…僕にはあなたしかいない」

「…ありがとうございます、嬉しいです」



積雪は社交辞令のように言葉を流しながらも、嬉しそうにはにかんでみせた。

先程とは違う笑みを浮かべながら、そうだと手を叩く。



「今日は良いものを持ってきたのですよ、気に入って下さると嬉しいのですが…」



そう言って後ろ振り返り、重々しげな鞄を開けて小さなものを二つほど取り出した。


片方はリモコンのようにも見える、段階を示すのか数字が横に刻まれている。

もう片方の手にあるものは小さく長円形をしている。



「?何だ、それは」

「俗にいう、バイブレーター…あなたには振動機器といった方が分かりやすいでしょうか」

「振動…」

「ええ。一般に、性行為の際に用いられるものですが、私たちはそういったものを作っていません。もちろんご要望があればお作りしますが。これはまだ試作段階なのですけれどね」



こちらで操作して、それがこれに伝わって…と説明をしながら、積雪は指を動かす。

右手にある機械をかちりとスイッチを入れると、すぐさま左手の内の長円形のものが小さく振動を始めた。

もう一度スイッチを元の場所に戻すと、小さな振動はぴたりと止まった。



「…それだけなのか?」

「流石曲識くん、鋭いですね…いかがでしょうか、試して頂けますか?」



もちろん、見合ったお礼を致しますと付け加える。



「…悪くない」



スカートなので楽ですねと無邪気に笑う積雪に頷いて、受け取ったそれを曲識は興味深げに眺めてから、テーブルへと置く。

ゆっくりと膝立ちし、じょじょに下着を下ろしてテーブルに置いたその楕円型のものを掴み、赤い舌で舐め上げてから後ろに持っていく。

その様子は、ひどく扇情的である。



「…っ、つ、み…」

「何ですか?」

「見、っ」

「ああ、今回は良いですよ、見せなくても。お気遣いありがとうございます、挿れてしまって構いませんよ」

「そう、か」



ベッドについた手に力がこもり、爪の色が白くなる。


後ろに回した手がゆっくりと動き、その動きに合わせ、体が断続的にぴくびくと揺れる。

小さく呻いて短く浅く息を零して、そうして閉じていた瞳を薄く開いた。



「入れ、たよ、…積雪さ、ん」

「ええ、見ていましたよ」



異様な熱に浮かされるような、黙っていてもどうにかなってしまいそうな違和感に耐えながら、曲識は俯けていた顔をあげた。



「では、今日はこれにて失礼いたしますね」

「え…」



積雪の言葉に、曲識は整った顔を顰めた。

その表情に、積雪は満足そうである。



「また夜も更けたらお伺いします。あ、次は寝ていないで待っていて下さいね」



これでも寂しがりなものでとしっかり釘さして、積雪はぼんやりと見上げてくる曲識を放って、帰り支度 ―といっても鞄の蓋を閉めただけだが― を始める。

優雅な動作で立ち上がり、ああと思いだして振り返る。



「もう着替えても良いですよ、店の看板は営業中になっていましたね、着替えて支度をした方が良いですよ。その服はぜひ、今度また着て見せて下さい」

「あ、ああ…」

「それともう一つ。中のものはそのままにしておいてください」

「え、でも」

「私がくるまでそのままでいてください、それが実験内容です。詳細は次来た時にお教えしますよ」



もちろん、お礼もその際に…そう曲識の耳元に囁いてから、積雪は立ち上がり草履を足に突っ掛け、部屋を出て行ってしまう。

まだ現実のように思えず、ドアをぼんやりと見つめたまま動けないでいた曲識は、足音が近づいてくるのを気配で感じた。


今日は少々遅刻するかもしれませんと従業員が言っていたのを思い出す。

もうそんな時間かと曲識はセーラー服を脱ぎ始める。

下ろしていた下着を上げてスカートを脱いで、きっちりと畳まれた燕尾服に手を伸ばした、瞬間。



「…っ、は、……んっ」



自分の、ちょうど下腹部辺りにあるのだろう振動機器が震えを始めたのが分かった。

その震えにがくりと膝が折れ、畳まれた燕尾服がぐしゃりと崩れる。


朦朧とする頭で、積雪がスイッチを入れたのだろうと先程の操作を思い出し、唇を噛み締めた。



「…っ、ふ……あ、あ、…っ!」



中で緩く振動していたものが、形を変えたように思えた。

目で見たときには長円形だったはずだが、今はどうやら先端が尖っているかのようである…

変形をするのだろうか…おかしな話であるが、積雪ならば、積雪の客ならばやりかねない。


それよりも着替えなくてはと曲識はワイシャツに袖を通す。

今日は長い夜になりそうである。

震える体を叱咤して立ち上がり、壁伝いにドアに手を掛ける。



「悪く、ない」



そう思える自分はやはりどこか人と違うのだろう。

以前積雪に言われたことを、曲識はぼんやりと思い出すのだった。