ぱりん と小気味良い音が足の下でした。

邪はどちら

舞織は手にコップを持ったまま、動きを停止させる。


…これは……これはもしかして……


嫌な予感に冷たい汗が背筋を伝う。

お風呂に入ったばかりなのに、と冷静な思考が場違いな文句を零す。

続けて、スリッパ履いてて良かった、と自分第一の言葉までもが頭に浮かぶ。



「伊織ちゃーん、私の眼鏡知らないかーい?」



後ろからそんな言葉が掛かって、更にツツ…と汗が流れ落ちた。


ああお兄ちゃんがお風呂場から出てくる前にコレを何とかしなくてはと早速アリバイ工作を始めようとしている自分がいた。

軋識さんにでもなすりつけちゃえ、と小悪魔な自分がヒソリと名案を立てる。

が、ソレはすぐさま脆く崩れ去っていった。



「いーおりちゃーん?」



ドアが開く音がして、舞織の肩が、ぴゃ と上がる。

フローリングを歩いてくる足音、背後に、接近。



「そんなところに突っ立って…風邪引いちゃうよ?ああもう、まだ髪乾かしてないのかい?」



後ろから細みの長身が舞織を影で覆い被す。

ふわと鼻腔を擽った、自分と同じ甘い香りに、先程を現実と思い知らされてカッと顔が赤く染まる。

けれど今はそんな恋する少女全開にしている場合ではないと、顔を振って、ゆっ…くりと、体を反転させる。

足は床を擦るようにして、なるべく音を、特にガラスの音をさせないように、ゆっくりと動かした。


足を浮かせて動かす策も思いつきはしたものの、それでガラスの破片が兄の足に刺さっては大変だと思い直しての事だった。

わたしってば兄想いですよね。



「お、お兄ちゃん」

「ん?どうしたんだい?」

「い、いえ…」



首が痛くなるほどに見上げねばならないその人は視界がぼやけているのか、焦点を合わせようと目を細めていた。

それがまた、普段あまり見ぬような真剣な瞳に見えて、思わずドキリと心臓が跳ねる。



「伊織ちゃーん?お兄ちゃんの眼鏡知らないかーい?」



自分の問いにちっとも返事をしない妹を訝しんで、双識は声量を少しだけ上げ、視点が少しだけズレている気がして、ずいと顔を近づけた。

それに伴い、舞織は思わず体を後退らせる。


と、足元で、ぱり と音がした。


先程より幾分小さいそれは、ぼんやりしていれば聞き逃してしまうほどのもの。

だが、舞織の耳には今の自分の心音よりも大きな音となって聞こえていた。


悟られぬよう不自然にならぬよう、これまたゆっ…くりと下に目線をやれば、足の下に全て隠していたはずのガラスの一破片が足下から零れ落ち、蛍光灯の光を受けて、キラと光っていた。

それを目にとめるやいなや、正直な心臓がドクリと跳ね上がる。



「いーおりちゃーん」



バレた…!と次に来る言葉に構え体を硬直させたものの、上から降ってきた声に変わりは見られない。

そろりと見上げれば、見下ろす双識の目は自分からちょっとズレた位置にあった。

やっぱりぼやけてるんだ…と肩を撫で下ろす。


バレずに済んだとホッとして、けれど問われたその言葉にああ何か策はないものかとすぐさま思考が巡り出す。



「あ、あの、さ…さっき、軋識さ、んが…」

「アスが?」



巡り巡る思考の中で我武者羅に掴んだその名を口にすれば、双識が眉を顰めた。



「そ、そう!軋識さんが!」



舞織はしめた!と意気込んで捲くし立てる。



「わたしがお風呂から出てきたら軋識さんがお兄ちゃんの眼鏡を掛けてて…な、何か…眼鏡は最大の萌えだっちゃ とか言ってて…よ、酔っ払ってたんですかねぇ…うふふ…そ、それで、その眼鏡のまま、壁に当たりながら部屋に戻ってっちゃったみたいですよ!?」



噛み噛みの裏返った不自然極まりない声。


わたし、嘘がつけない子だったかなあ とぼんやり考える。

思考が降伏してしまい、現実逃避を始めてしまったのかもしれない。


刑を待つ囚人のように舞織は頭を垂れた。


だが、奇跡は何度だって起こるらしい。



「ふうん」



舞織の恐怖を引っ繰り返すように、寧ろ引き立たせるように、双識は怒る事も詰め寄る事もせず、ただ頷くだけの返答を返した。


納得したのかどうでもいいのか、何か考えがあるのか、双識は二階に目をやって何度も頷いていた。

妹を完全に信じているだけかもしれない。…究極のシスコンだから。


舞織は逃避していた思考を戻し戻し、これはまだ可能性があるのかもしれないと目を見張った。



「…まぁ、…寝てるなら起こすもの可哀想だし…私ももう寝るだけだしね、明日でいいか」



取り返しに行くのかとヒヤリとしたが、面倒臭いのかどうなのか、双識は小さく欠伸をするにとどまった。

舞織は、内心でガッツポーズを決める。



「…そ、そうですよ!それがいいです!!おやすみなさい!」

「伊織ちゃんは?上に行かないの?」

「わ、わたしは、!…お茶を、飲み終わったら…いきます」



手の内ですっかり温まったコップを指差して、無理矢理に笑顔を作る。

見えていないのだから意味はないのかもしれないが、双識を侮ることなかれ、だ。



「そう」

「はい!」

「…あ、」

「えっ!?」



双識が首を傾いでキッチンへと目をやる。

舞織には双識が壁で見えないが、何かを発見したらしい。



「コップと…お皿二枚、置いてあるね。洗っておいてくれるかい?」

「は、はい!よろこんで!!」

「ありがとう」



バレたかと思った…

浮き出た汗を拭いたい思いを必死で抑えて、舞織は精一杯の笑顔を作る。


双識は薄く笑みを浮かべて、じゃあ と背を向けた。


いつもとは違う顔ばかり、今日は見てしまった。

そのせいか何なのか、こんな素敵な人が自分のものだと実感したかったのかもしれない。

一緒に寝たかったなと舞織は小さくしょげた。


リビングを去ったその背を見送って、舞織は足をどかしてしゃがみ込んだ。

力を込めて静止していたせいか、片足だけぴりぴりと痺れているが、致し方ない代償だと思う。


開いたドアから涼しい風が吹いて舞織の背を冷やしていく。

早く片付けて寝ようと、舞織は見事に歪んで割れて折れて、原型を留めていないレンズの破片に触れた。



「伊織ちゃん」

「ひゃ!!」



後ろから、ふ、っと声が掛かった。それも真後ろ、耳元で。

振り向くまでもなく、横目でも確認できる、その長い黒髪、バチとかち合った赤い瞳。



「ど、、うしたん、ですか…?」



いつからそこに、どうして気付けなかったんだろう、どうして戻ってきたのか、隣でしゃがむ双識に、舞織の心臓がまた一気に跳ね上がり出す。


落ち着け、落ち着け

双識には、見えていないはずだ。

手は、動かしちゃ、だめ。


ガラスを取ったその手を微かに震えさせ、舞織は平静を装う。

声が裏返ろうと震えようと、バレなければ良いのだ。

舞織の問いに、双識はニコと微笑んだ。



「ガラスで、指、切らないようにね」

「……え…?」

「あと、それ、」

「……」

「明日修理に出すから、拾い集めたら部屋に持ってきてね」



待ってるからね と頬に柔らかいものが触れる。

与えられたソレにただドキドキして、ぼんやりと言われた言葉を反芻する。


『ガラスで、指、切らないようにね』

『明日修理に出すから、拾い集めたら部屋に持ってきてね』


それは…

つまり…?


見えてたってことですか。