わたしの中で、四月二十三日と言う日は、少なからず特別な日として認識されている。

六割の期待と四割の不安…いや、六割の不安と四割の期待かもしれない、あるいは五割の腹痛と二割の不安と三割の期待。


意識しないようにすればするほど気になってしまい、キリキリと痛む胃を押さえる。

考えれば考えるほど胸締め付けられる日であることは確かだった。


つい先程、少なからずと前置いたが、つまり四月二十三日はわたしにとって、一年の中で片指に入るほどの特別な日なのだ。

女の子行事として片指に納まる行事と言うことの偉大さとはいかなる意味をもつか…


I was born.

けれどわたしにとってはこの世に生まれ落ちた特別な日なのだ。


こんな風に知恵熱を出してしまうほどには。

I was born . but i am happy!

ピピピッという電子音が二度三度、小さく鳴った。最初はひやりと冷たかった体温計はもうすっかりと肌に馴染んで温かい。

舞織は閉じていた瞳をゆっくりと開ける、朦朧とした意識の中で電子音を聞いたのだ。


脳からのやっとの伝達で、体温計が計測を終えたことを認識する。



「う、うう、う」



掠れて淀んだその声は、何だかとても苦しそうだった、他人事のようなソレ、だが現にとても苦しいのである。

この頭痛は吐き気は…はたしてどれほどの体温に急上昇していることか…

脇に挟んだ体温計を取り出そうと動かそうとした体は言う事を聞かず、石のようにずしりと重たらしい。



「動かなくていい、僕が取ろう」



もそもそと動いているのに気付いて、曲識が椅子から腰をあげた。

動きを制止され ―されるまでもなかったわけだけれど― いちいち優雅な動きでもって、口元までかけてある布団を捲る。

上から三つ目までといたボタンから覗く胸元、ひやりとした指先が触れたかと思えば、次の瞬間には水銀の部分が温くなった体温計を取り出されていた。

動きがスローモーションのように遅く動いているせいで、かなり不思議な動画再生を見ているような気持だった、そして気持ちが、悪い。



「う、な」



恥じらい乙女の胸元をそのようにいとも容易く覗き見るものではないですよ、もう少し感慨深く有難味を持ったらどうですか。

訳せばとどのつまりはこのような言葉だったのだが、軋識さん辺りに言ったところで通用はしなかっただろう、人識くんに言ったところでたった二文字にそんな言葉が含まれてるもんかと言われただろう。

あるいはお兄ちゃんなら通じたかもしれない、兄妹愛の力とでも言うかもしれない。

そして曲識さんは…



「……そんなに気にすることはない、大したことは無い」



通じた、しかし失礼千万だ、余計なお世話です全く。



具合が悪いと言って学校を休んだのは久しぶりかもしれない。

元より行く気だった自分に今でこそ驚きを隠せないが、休みなさいというお兄ちゃんの言うことは正しかったのだと舞織は額からずれた濡れタオルを見上げた。

それに気付いた曲識が、タオルにも負けないその真っ白な手を伸ばし、元あった位置へとタオルを戻した。



曲識さんはお兄ちゃんの命を受けてここにいる、もうずっと、それこそわたしがベッドに入った瞬間からずっと、だ。

いくらなんでも生真面目すぎる気がする、ちょっと引く、というか重い。



ふかふかの枕に顔を埋め、頬を膨らませてみるが、曲識は意に介した様子もなく、体温計を見つめている。



「三十八度九分、風邪だな」

「か、ぜ、なんかじゃあ…」

「時期は外れているがこの温度は平熱を超えている、風邪でなければ何かの病気だな、尚更外へ出すわけにはいかないよ」

「べ、つに…」



出ようだなんて気はないですよという言葉はパクパクと空気に消えてしまった。

声が…でない…?


先程までの喉の痛みや掠れとは違う、声帯を失ったような…ただただ声は空気に消えていくその様に、舞織は首を傾げた。

そういえば石のようだった体が妙に軽い、何だろうと思って腕を持ち上げようとして…やはり持ち上がらない。

確かに力を込めた、持ち上げるよう伝達を送ったはずだ、けれど動かない。これは石のよう…というよりも神経が通っていないかのようだった。

いやだがしかし何でまた急にそんなことが…



「何をそんなに不安そうな心音を速めている」

「……っ…っ…」

「ああ、そうだった、あなたに反抗されると厄介だとアスから聞いていたから…ちょっといじらさせてもらったよ」



僕の力のことは覚えているか?と問われ、舞織は霧がかった思考を巡らせる。何でだろうか、とても、眠い…

ああ、そうだ、この人は、音を使って色んなことを、できる人だった、はず。色んなこと…色んなことって何だ、あんなことやこんなこともできちゃうのか、だから少女趣味なのか…

昔襲われかけた時のことを思い出し、舞織はぞっと身を竦めた、いや、動かなかったので気分としては竦んだという、感じである。


にしたってもないがどうしてかとてつもなく、眠い。水みっみゃくでも盛られたかのような…急激な睡魔。

何で、だろう…と巡らない思考で考えていると、霧の中をかいくぐってきた記憶がぱちんと頭をはたいた。



「…そんなに睨むな、風邪は寝て直すのが一番らしいぞ」

「……」

「まあ声ぐらいは出せるようにしておこう、用があった時は呼んでくれ」

「…っあのですねえー」



曲識の声が響いた、響いていたのはずっとだった、そしてその響きが終わって耳の鼓膜へと届く頃、ふっと唐突に声が出るようになった。

唐突、本当に、唐突に。何事もなかったかのように喉を震わせて出る声は、先程の掠れや痛みを微塵も感じさせない。



「…曲識さん」

「何だ」

「何かしましたか」

「何もしていないと言えばしていないし何かしたと言えばした、あなたはどちらを言えば満足するだろうか」

「もういいです」

「そうか…もう、寝ろ、随分と眠いはずだよ」



ああ、やっぱり、やっぱりそうなんだ。何かしたんですねと目で訴えれば小さく肩を竦められてしまう。

視界を隠すように、暗闇にするように白い手が椀の形を作り、舞織の目の上へと翳される。

これでは、目を開けていても閉じた状態と大差ない、舞織は渋々目を閉じる。



「…どうした」

「…曲識さんが、したんでしょう」

「僕はこんな意味のないことはしない」



暗闇から零れ落ちた涙は頬を伝い顎を伝って喉元を濡らす。ほろほろと落ちて枕を濡らして耳を濡らして。



「泣くな」



そんな呟きが聞こえて…ああ、何だかおかしくなってきた。

淡々としていた声に、小さな焦りを発見できたからだろうか。



「泣きながら笑うのか…不思議だな、あなたは」

「人間て言うのはですね、風邪を引くと感情をうまくコントロールできなくなってしまうんですよ」

「初耳だ」

「学習しましたね良かったですね、では…こういうときは、どうすれば良いか知ってますか?」

「分からない」



そう囁く声が暗闇の向こうから聞こえた。

ああもう、ダメだ、あと一言、二言だけ…と舞織は閉じた瞳の裏でそう祈る、見えない、誰かに向けて。



「手、握ってて下さい」

「分かった…」

「…ありが…と、う…」



こんなに静かな優しさを、わたしは未だかつてもらったことがない。

これがこの人のやり方なんだと思うと、どうしてか無性に愛しさが込み上げてきた。