いつだって、乱されているのは僕の方。

いつだって、僕を乱すのは貴方自身。

Ich libe dich

乙女の諸事情を理解して下さいと崩子がこの部屋を出ていってから三十分が経過した。

未だに乙女の諸事情とやらが理解できずにいる僕、それからどうしてか崩子と入れ替わりに部屋へやってきた姫姉。


重い沈黙が、もうかれこれ三十分続いていた。


夜も更け、恐らく崩子は姫姉の部屋で死んだように眠っている頃だろう。

ならば今行って起こすのも酷というもの、それは分かっている。分かっているのだが…


どうにも耐え難い沈黙。どうしてソレが続くのか…それは姫姉が先程から並々ならぬ緊張をしているからに他ならない。


なぜだろうか…?

理由は思い当たらない。


姫姉が夜更けにこちらを訪れてくるのはそう珍しい事ではない、寝付けなかったり面白い話があれば、夜中であろうとニコニコとこのドアを叩いてやってくる。

そうして満足するまで話して、そうでもなければそのまま遊び疲れて雑魚寝という事もざらである。


崩子がいないだけでこうも変わってしまうものなのか…

自分達の関係が変わってしまったから?

…それはないだろう、変わってしまってからもこうして姫姉はちょくちょくやってきたし、崩子が留守の時も何ら変わりは見られなかった。

かといって関係がギスギスだとか今みたいにガチガチであるかといえばそうでもなく、手が触れ合えば口付けだってしたし、以前とは違った信頼関係が築けているようにも思えた。



「………あの」

「はははははい!!」

「いえ、あの…姫姉は、…大丈夫ですか?」

「え!!?あ、っ、あ、も、もちろんです!!」



壁にぴったりと寄り添っていた姫姉に声をかけると、あからさま過ぎるほどの挙動不審が返ってきた。

これには流石に眉を顰めてしまう。

読み掛けの本に栞を挟んで、テーブルへと置いた。


一体何をそんなに緊張しているのか、このまま夜が更けて寝不足なんて笑えないと、姫姉に四つん這いで近づいてみる。



「……あの」

「ひゃい!!」

「………ぷっ、あははは」



これにはお手上げ。

近づいた分だけ壁へと密着してしまった姫姉、掛けた声に返ってきたのは「ひゃい」。


堪えようにも笑わせているようにしか思えず、うっかり吹き出してしまう。

複雑そうな顔をする姫姉、ああ、笑わせる気はなかったのかと脇腹の痛みを手で押さえ、姫姉の向かいにきちんと座り直した。



「すみません、笑ってしまって」

「い、いえ…姫ちゃんの方こそ…」

「それで…どうしたんですか?一体」

「……」



グ…と言葉に詰まって、気まずそうに逸らされた瞳に、僕は困惑することしかできない。

何かあるのだろう、話か、相談か…それとももっと、他の、言い出しづらい何かが。


それをうまく言い出せるような話術が備わっていないため、こうもだんまりされてしまうとどうしたら良いのか分からない。



時刻は日付を超えて、零時二十分。

こういう時は無理に聞き出そうとせず、本人に気持の整理がつくまで待っていてやるのが男の務めなのかもしれない。


ならばいつまでもこうして問い詰めるような真似をせずに、明日元気なおはようが聞けるように、さっさと寝るべきだろう。



すっくと立ち上がった僕に、何を思ったのか、姫姉が肩を揺らした。


おんぼろにぱちぱちと点滅する豆電球を指さす。



「夜も遅いですし…もう寝ませんか?」

「………」

「ね?このままだと僕も姫姉も、風邪、引いちゃいますよ」



今の時期、夜は冷えますからと、沈黙を作らないよう言葉を紡いで、本の乗ったテーブルを端まで押しやる。

このぐらいの幅があれば布団二つ、無理矢理にだが敷けるだろう。

姫姉が少し場所を移動したのを目の端で確認してから、ずるりとまずは自分のものを引っ張り出して床へと広げた。

もう一つの布団は崩子のもので少し小さめだが、姫姉ならばちょうどいいぐらいだろうと、押し入れから布団を掴み、引っ張り出そうと力を入れる。

と、くんと服の裾を引っ張られた。



「?…姫姉」

「……、つ、で良いです」

「え?」



この状態で隣り合わせは気まずいという事だろうか…

少し傷付くなあとぼんやり思っていると、姫姉が顔をあげた。



「私は、萌太君の姫姉じゃありません!姫ちゃんです!それから布団は一個で十二分です!!!」

「…………う、わあっ」



布団に手をかけたままぼんやりとしていたのも束の間、掴まれた裾を更に強く引かれ、不安定な体勢だった僕はそのまま布団に倒れ込む形となった。


どすんと大きな音がした。

誰がどこへ来たかすぐに分かってしまうこのアパートだ、下の階の人達はさぞ驚いたことだろう。いや、むしろ驚かないような精神の持ち主だっただろうか。


尻に響く痛みに目を細め、むくりと体を起こす。



「うわ!」



目の前に姫姉がいた。

その瞳は、何か思いつめたような、危なげな雰囲気を漂わせている。



「ひ、ひめね…」

「…っ私は、萌太君のお姉さんになった覚えはありません!それともなんですか!姫ちゃん相手じゃやっぱりお姉さんが限界ですか!ちっとも魅力感じないですか!」

「ちょ、ちょっと姫ね、…あ、いや、…えと…い、一姫さん、落ち着いて」



先程僕がしたのとは訳が違う、その四つん這いをなるべく見ないようにして、わなわなとふるえる小さな体に手を添える。

何がどうしたというのだろうか、ともかく姫姉…いや、…一姫さんが今にも泣き出しそうなのは分かった。というよりも、それしか分からなかった。



「…泣かないで下さい、一姫さん。落ち着いて、順番に、説明してくれませんか?」

「萌太君はこの上更に姫ちゃんに羞恥プレイを強要するですか」

「え、いや、そんなつもりは…」

「姫ちゃんは、一大決心して来たですよ…萌太君が好きだから……でもやっぱり良く分からないし、萌太君は襲ってこないし…ひ、姫ちゃんは…っ姫ちゃんは…っ!」



うう とほとほと布団に染みを作っていく一姫。

これがもし、僕の都合の良い解釈だったなら、思う存分笑って欲しい。


彼女の涙に、僕の心臓がぎゅうと締め付けられて、ああ、喉が渇いたと場違いなことを思った。



「いち、ひめさん…」

「…っひゃ、」



肩を強く掴んだせいかもしれない、手の中の体が強張ったのが分かった。

いくつもの涙の筋が見えるその瞳に口付ける。



「女の子の貴方に、こんな事言わせてしまって、すみませんでした」

「…萌太く、」

「大好きですよ、一姫、さん」



ドクドクと鳴る心臓を悟られないように、そっと口付けた。