嫌な予感は、最初からしていた。



「僕が…姫姉のこと、好きだって言ったら…姫姉はどうしますか?」



嫌な予感…というよりは、不安、恐怖、に近いもの。


決して不快なんじゃなくて、憎悪なんかじゃなくて、ただひたすらの、不安。

それがどうしてか、分からない。



「姫姉、あなたは、僕を、どう思っていますか?」



ひとつ、言えたのは、言葉が詰まった、こと。

私を好きだという萌太君が、すごくまっすぐで、きれいで、息ができなくて、泣きたくなるような苦しさが襲ってきて、言葉に詰まった、ということ。



ししょー…


姫ちゃんは、こんな感情の名前を

知りません


ししょーは、教えてくれませんでした

それとも、姫ちゃんが聞いていなかっただけですか?


それならししょー、

姫ちゃんは、姫ちゃんはきっと

この怖さを知っていたんでしょうね、


何か一つでも言葉を言ったなら、色んなことが変わってしまいそうで


こわい、です



だから姫ちゃんは蓋をしました

見ぬふりを、気付かぬふりを


変化を恐れ、不変を望んだ姫ちゃんを

どうかどうか、きらいになってください、萌太くん…

はらはらと、落つる雫の、暗涙の先

姫ちゃんは、すぐさま部屋に戻ってきたぼくを訝しむでもなく、むしろ待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせた。

まあ、助けを求め、縋るようなその瞳は、すぐに何とも言えない複雑な表情に変ってしまったのだけれど。


へえ、こういう顔するんだ、とぼくは一人得心してしまった。



「ただいま」

「お、帰りなさい」

「どう?落ち着いた?」

「……はい、まあ…」



姫ちゃんはすぐに気付いただろう。

この紫煙の匂いに、その意味に。


靴を脱いでそのまま台所へと向かうぼくに、姫ちゃんが小さく息を詰めた。



「っ、し」

「え?」

「……な、んでもないです」

「そう」



人の心情や自分の心情を感じ取るのが苦手なぼくだって、いくらなんでもこれは分かる。


姫ちゃんは今、言おうとしたに違いない。

萌太君に、会ったんですか…?と。

でも姫ちゃんは言わなかった。

言えば楽だったろうに、説明する手間も相談の手間も、ましてや萌太君の今の心情でさえも、聞こうと思えば聞けたはずだ。


それをしないのは、単純なる恐怖だろう。


例えば萌太君に返事を聞いてきてくれと頼まれていたら、例えば自分の悪口を言っていたなら…


普段の姫ちゃんなら、人柄をよく知る萌太君のことをそんな風に思わないだろう。

だが窮地に陥った人間は、正常な判断を見誤るものだ、そんなことを考えてもおかしくはない。

萌太君は今の今まで、もしかしたら今だって姫ちゃんにとって家族のような存在。言葉通り掛け替えのない人だ、良くも悪くも。


だからこそ悩む、まさかの申し出に戸惑いを隠せない。

だからこそ泣く、悲しませたくない、嫌われたくない、壊れることに恐怖する。


そうして姫ちゃんは見事、袋小路に陥ったわけだ。



まあ、そうでなくても姫ちゃんは恋だの愛だのに疎い。お約束のように、何の躊躇いもなく「恋」を「変」と書くような子である。


よくも分からない感情を前に泣きたくなる気持ちも分からなくもないし、何だかんだで可愛い愛弟子。

泣かせっぱなしも、突き放すことも、ましてや手放すことも、したくはない。

…うん、嫁にやることを許さんとする父親の気分。


部外者だけど、姫ちゃんと萌太君が引っ張り込んでくるわけだし。いや、萌太君は良い子だけど、幸せにしてくれそうだけど。

蝶よ花よ、虫よ糸よと育ててきたので、おいそれとやるのはちょっとだけ悔しい。

姫ちゃんがまだ分からないのなら、見ぬふりをして助けを求めてくるのなら、ぼくはその手を取ってあげても良いんじゃないか。



いや待て、どうしてぼくはこんなに必死になってるんだろう。



と、そこで隣で小さな体を更に小さくして首を垂れる姫ちゃんがいた。

その小さな頭をぐわしと掴むと、あう と呻き声が漏れた。


つまりは、うん、そういうことだ。

寂しい、んだな。


ししょーししょーと身の回りをパタパタしてくる姫ちゃんが鬱陶しくも嬉しいから。


離れていってしまうのは、さみしい。姫ちゃんには絶対に言ってあげないけど。


どうせいつかは離れていく身、だったらそのギリギリまでぼくのものでいてもらおうかなとぼくは結論する。

萌太君にはちょっとばかり頑張ってもらおう、姫ちゃん自らに萌太君が好きなんですと言わせられるぐらいには。


ぼくと姫ちゃんの繋がりを切ってくれるぐらいに好いてくれないと。

姫ちゃんにはそうなるだけの価値と義務がある。

辛い思いを忘れることはなくても、その幸せに救われるぐらいには、幸せになって、愛されてもらわないと。



「ね、姫ちゃん」

「へ?!」

「姫ちゃん」

「は、はい!」



ぼくの突然の振りに戸惑いながらも、姫ちゃんはぼくに向き合うようにしてきちんと正座をした。

こうやって正座をするようにと教えたのも紛れもなくぼくだ。


ただの寂しさや嫉妬であったところで、そんなもの、ぼくには関係ない。

どうせ引き止めたって行っちゃう時は行っちゃうんだから。

だから、…それまでは…



「大丈夫だよ、姫ちゃん」

「…」

「大丈夫、ぼくがそばにいるよ」



萌太君には悪いけど。若いんだから、この時しか味わえない、切なく甘く苦く、焦れったいばかりの恋をしてもらおうじゃないか。



「…っ、はい!」



手を乗せた小さな頭、幼い表情が、ぱっと微笑んだ。

……うーん…持つかな、ぼくのデリカシーな心臓。