ピリリリリリリ…

と鳴ったその一本の携帯電話で、俺は全力疾走して帰宅せざるを得なくなる。


俺は馬鹿だ…っ

あれほど言っていたのに

俺は…俺は…っ!



「―――っはぁ…っ、はぁ…ッ!」



ごめん、舞織…っ

約束

楽しみにしてますね そう笑った顔が酷く愛しいと思ったのを、今でも鮮明に覚えている。


知らずに伸びた手が、彼女の髪を弄んで、くすぐったそうにするその顔が余計に何かを駆り立てて、

息もつけぬほどの口付けを強請ったのも、覚えている。


餓鬼のように夢中だった…

というよりも現在進行形だ、舞織さえいれば と甘い事を思う自分が心の中にいる。



阿呆な俺は、散々告知してくれたその愛しいヤツの誕生日をすっかり忘れ、挙句、その日は仲間と飲みに出掛けていた。


そんな矢先の電話だった。



『大将の一番大切なものって何だ?』



開口一番そんな事を聞かれ、何の事だと眉を顰めたものの、ほろ酔い気分に任せて一言、舞織 と返した。



『じゃあ、今日は何日?』

「…二十三…?そ…」

『舞織は、あんたの事…待ってたぜ?』



それがどうした という言葉は、喉の奥へと流し込んだアルコールと共に飲み込まれた。



『ずぅっとずぅっと。…でも俺達に気づかれないように明るく振舞って…逆に気を使う羽目になって、俺は酷く疲れた』

「人し…」

『ドアの方ばかり眺めて、泣きそうな顔して祝われた。祝って欲しいやつが来ないうちに、宴は終了だ』

「…祝…い…?」

『ハンッ、いよいよボケたのかよ、大将…』

「…人識、今日って…」

『あいつの誕生日だろうが』



サアアァァ と血の気が引いていくのを感じた。


思わず席を立って壁に掛かった時計を見やる

針が十時半を指し示すところだった。



「すぐ帰る」

『あっそ』



帰ってきても晩御飯はもう残ってないぜ?一切れのケーキしかな…

という人識の言葉を途中までに携帯を切って、店を飛び出した。




そうして駆けて駆けて駆け抜けて

帰宅して腕時計を見やると十一時半。




玄関先でへばっていると、双識が水が入ったグラスを持ってやってきた。



「ま 舞織、は…?」



ヒューヒュー と喉に穴が開いたような音が、口から漏れる。

その合間合間に辛うじて言葉を発すれば、双識はゆるりと顔を上へ上げた。



「二階」

「っ…はぁ……ちょっと行って来るっちゃ」

「寝てるかも知れないよ?」

「……」

「嘘、起きてるよ。さっき、部屋から啜り泣きが聞こえたからね」

「っソレを早く言えっちゃ!」



悲しませた罰とでもいうように肩を竦める双識の脇を擦り抜けて、二階へと続く階段を駆け上がる。


部屋のドアを、だん と叩く。



「っ舞織!俺だっちゃ!」



返事がない事に、追い立てられるように、もう一度、ドアを叩く。


ダンッ


ハッ と強くし過ぎだと後悔して、声を抑えてドアノブに手を触れる。



「入るっちゃ……って…何だ、これ」



ドアには一枚の紙が貼られていた。



『軋識さん 立ち入り禁止区域』



「…っ…舞織ー…」



ずるずるずる とドアに頭をくっつけたまま、床に膝を落とす。

貼られたその紙を見て、ふと場違いに微笑んでしまう。


怒っているくせに名前は『サン』付けか…



溢れ出す愛しさ、込み上げる後悔



「舞織…入るっちゃよ」



小さく一度ノックして、ノブに触れた。

そしてゆっくりと回す。


もしかしたら施錠されていて回らないかも知れないというのは杞憂に終わり、暗い部屋が視界に入る。



「まい…おり?」



ベッドに見えるそのモノに声を掛ける。

が、ピクリ ともしないソレに首を傾げつつも、歩み寄る。


一歩そこに足を踏み入れるだけで、ふわり と温かな温度と胸を締め付けるほどのその匂いに、軋識は、ソッ とドアを閉めた。


ソレを逃がしたくないという思いと、知るのは自分だけで良いという思いと、閉じ込めて自分にも香れば良いという思いと

どれもこれも、重い思いだ と苦笑した。



「舞織」



隣に腰を下ろして、その小さな背中に触れた。

規則正しい呼吸の音が、彼女が寝ている事を教えてくれる。


雲の合間から月が顔を覗かせ、そこで気付いた頬に残る、キラリ と光る雫の跡。



「ごめん…っちゃ」

「ごめん で済んだら、警察はいらないです」

「っ起き、て…!?」



頬へと伸ばした手を、ぺちり と払い落とされる。

ベットに預けていた体を起こす。

眉を顰めて、眼光が鋭く軋識を射抜くが、軋識にはその表情が怒りとも悲しみともとれた。



「ドアに貼ってあったもの、見なかったんですか?」

「見たっちゃ」

「じゃあどうして」

「どうしてもこうしてもあるか」

「あります。わたしは貴方に会いたくないんです…少なくとも今日は」

「今日のうちに会わなくちゃ意味が無いっちゃ」



その言葉に、舞織は見る見る表情を歪め、崩した。



「今更そんな事言わないで下さい」

「嫌だっちゃ」

「…嫌って…そんなの自己満足です!我侭です!」

「構わない」

「構って下さい!」

「…分かったっちゃ」

「ちっ、違う違う!わたしを構わないで下さい!そういった自分勝手な思いに対してわたしがどんな思いをするのかを構ってって…言っ…

 言ってる時に触ろうとしないで下さい!!」



わたわた と慌てふためくその姿に、緩む口元をしっかり締めて、手を伸ばす。

その細い手首に触れて、また バチンッ と今度は幾分強く叩き落とされた。



「っ…お願いだから…出ていって下さい…」

「嫌だと言ってるっちゃ」

「一人になりたいんです」

「なったら泣くだろ」

「っ誰が原因だと…!」

「分かってるっちゃ!だから余計に放っておくわけにはいかない!」



そう言って、今度は振り払われないよう力を込めて手を握る。



「っああもう、触らないで下さい!」

「嫌だ」

「っ離して…」

「嫌だ」



ぶんぶん と降り払おうとするが、解けず、舞織は悔しげに唇を噛み締めた。



「…お兄ちゃん……人識くん…」

「誰も来ないっちゃ」

「っ…ふぇ…」



弱弱しく、震えているその声を無視して、握った手をそのまま、指を絡めるようにして握り直した。



「……舞織…」



ぐず と小さく鼻を啜る音が聞こえた。

握られていないその手の甲を目元へと押し当てるものの、受け切れなかったその雫達は、ほとほと と舞織の太股を濡らしていった。



「抱き締めて良いっちゃか?」

「…どうしてそこだけ了解を取るんですか」

「…分からない…何となくだっちゃ」

「…嫌だって言ったら」

「良いと言うまで聞くだけだ」

「聞く意味がまるで無いじゃないですか…」

「そうだな」



そう自嘲するように一人笑んで、舞織を引き寄せた。



「わたし…まだ良いなんて一言も言ってないです」

「ああ」

「怒ってるんですからね」

「ああ」

「まだ許してないんですから」

「ああ」

「…っさびし…か…ったんですから」

「ああ」

「ずっと…ま…って…」

「ああ」

「っああ、ああって…ちゃんと聞いて…っ」



るんですか!? というお怒りは遮られる。

肩に埋めた顔が二度目、軋識へと向けられる。



先程と変わらない意思の強い目と鋭い眼差し。


惹き寄せられるように唇を押し付けた。