ざぁざぁ

深層心理のその奥深くの根底で

「わぁ!晴れてる!」

「そうだな」

「傘買わなくて良かったですね」

「ああ」



ばしゃん と片足が水溜りに突っ込んだ。

けれど彼女はソレすら楽しそうにして眩しく微笑んだ。



「帰りましょう、軋識さん」

「前見て歩け、転ぶっちゃ」

「失礼しちゃいますねっ転んだりなん…っ」



ぷく と頬を膨らませて、舞織は、ひらり とスカートを翻す。

足元の小石に気付き、軋識が歩幅を広くして舞織に追いつく。


そうして気付かないまま体勢を崩す舞織の腰を抱いた。



「…っ、ほら、な」

……ありがとうございま

「聞こえないっちゃ」

「っありがとうございます!!」

「ああ」



唇を尖らせて、それから躍起になって大声でお礼に聞こえないお礼を言われた。



「あ」



緩む口元を顔を俯ける事で隠せば、舞織の意識はもう別な方へ。



「ワンちゃんですよ」

「…え?」



どうしてもと譲らなかったスーパーの袋を大きく振りながら、道の端へと小走りに駆けていく。



「舞織?」

「…犬」

「見れば分かるっちゃ。…触るなよ」

「どうしてですか?」

「……犬が…」




この世は

ねぇ…何てつまらないんだろう…


弱っちいくせに、やたらと虚勢を張って、バレバレだから余計に愚かしい

弱さを知っていて、死を恐れるのに、なぜ、自分から向かっていくのか な




「…軋識さん?」

「あ、…ああ……」

「どうして触っちゃダメなんですか?」



ダンボールの箱の中。

小さな小さな子犬は、触れる事を拒む というよりは、何とも思わないような表情をしていた。



「……舞織は…知ってるっちゃか?」

「?」

「…犬をな…一匹…檻に閉じ込めるんだっちゃ」



唐突な話をし出した軋識に、舞織は、ぱちくり と瞳を丸めた。



「はい?」



何を考えているのか、きっと蒼色の事だけを考えていて…イヤ、そうじゃないかも知れない。

とにかく、不可解で不愉快な男が楽しそうに話したあの話。


顔は思い出さずに、言葉だけを掘り起こして、訝しむ舞織に構わず軋識は口を開く。



「その床には電気ショックみたいなものが流れるものが敷いてあって」

「?」

「ソレを流すと、勿論、中の犬は驚いて逃げようとするっちゃ。けれど檻はどこも塞がっている。出口なんて無いんだっちゃ」

「……その犬は…」

「電気ショックに驚いて逃げ回る、痛い痛いと、檻の中をブツかって飛び跳ねて…。ソレを何度か繰り返すっちゃ」

「………繰り返すと…どうなるんですか?」

「そうすると犬は我慢をするんだっちゃ」

「我慢…?」

「ああ。出口が無い と諦める事を覚えるんだっちゃ」

「…」

「そうしたら、次は檻を開け放って電流を流してみる」



うっとり とこの話をしたあの男とは正反対に、まるで自分が今ソレを受けているかのように、舞織は顔を青ざめ眉を顰めた。



「……その犬は…」

「逃げないんだっちゃ…さっきと同じように蹲って我慢をしたまま」

「そんな…」

「学習性無気力 という心理学の一つだっちゃ。言葉通り、逃げられないと諦めて、逃げる事をやめるんだっちゃ」

「……」

「この犬は、もう、諦めているんだ、拾われる事を。

 人は、同情する事が好きだからな。きっとこの犬は、見つかっては、可愛い 可哀相と撫でられ抱かれしただろう…

 でも、誰一人として、温かな居場所も美味い食事もくれてはやらなかったんだっちゃ。同情で数回、餌をやりに来たやつも、日を追えば来なくなる。

 犬は諦めたんだ。可哀相 で触れて、希望を持たせるなっちゃ」

「……」

「帰……、って、ちょっ、舞織…?」



あの目は誰かに似ていた。


蒼色の少女も、あのサドでマゾなあの男も、仲間も、そして…俺も、

諦め ている。


地球に、絶望し、人類に、失望し



「でも」



舞織は、止める軋識の言葉を無視して、その犬をソッと抱き上げた。



「…優しくされた事は無くならないでしょう?」

「え…?」



「抱っこされた事も、ご飯を分けてもらった事も、無くなりません。記憶として思い出として、ちゃんと残ってます」

「…」

「最期の時を、一人ぼっちだった事以外にも思い出せる幸せがあったって良いじゃないですか…」



ねぇ? と犬に頬擦りをして、舞織は寂しそうに微笑んだ。



「……確かに、諦めてしまったけれど、終わるその瞬間に、あの時の幸せを思い出して死ねたら、不幸なんかじゃないと思います。

 一人だけど…独りなんかじゃないと思います」



きっと と舞織は言葉を掠らせて、俯いた。

キラリキラリ と頬から地に落ちるソレを、犬は不思議そうに眺めていた。



「………っ……ぇ…」



そうして、今まで無反応だった犬が、舌で、ぺろり と舞織の頬を濡らした。


まるで泣くなとでも言うように、祖の涙を拭ってみせた。



「……、ありがとう……」



舞織は、顔をくしゃりと歪めて、微笑んだ。


犬は大人しく抱かれていた。

変わらず、光の映らない瞳で、静かに尻尾を振っていた。