「ししょー」



いつもより高いトーンだった。



「ししょー」



…いつもより低い、野太さを訴えるようなトーンだった。



「しっしょー」



いつもより明るいような



「ししょう…」



いつもより根暗な



「ししょ…」

「何なの?」



姫ちゃんがおかしい。いつもの五割増しぐらいで。

honey trap

姫ちゃんがちょっとばかしおかしい、いや、かなり。

暑さで頭がやられてしまったのだろうか、この部屋ってサウナのように暑いからなあ。あ、でもこの宿題のせいもあるかもな。



「ちょっと休憩しようか?」

「姫ちゃんはまだ矍鑠としていますよ!」

「ちゃんと意味を理解した上で使ってるかな」



読みはかくしゃく。少なくとも姫ちゃんのような年代の子に用いる言葉ではない。



「よし休憩にしましょうか!」



姫ちゃんはそう言って開いていたノートと教科書を閉じた。

以前どうしてかぼくの部屋に落ちていた、ノックの部分がうさぎの形 ―つまりうさぎのあの尖った耳を指で押さなくてはならない― のシャープペンシルをテーブルに置いた。

どうしてぼくの部屋にそんなファンシーなものが置いてあるのか甚だ疑問ではあるが、姫ちゃんが欲しがるのであげた。



「みいこさんから貰ったお菓子があるんだけど、それを食べようか」

「オレンジジュースは100%以外の妥協はしません」

「ならばスーパーに買い行ってこい、ぼくはりんごジュースが良いな」

「水道水をいっぱい下さい」

「いっぱい?」

「一杯」

「いくらぼくの部屋でも麦茶ぐらいあるぞ、なめるなよ」

「氷は三つでお願いします」

「はいはい」



まるで言葉遊びをするように、けれどまるで噛み合わない二人の会話はいつものことだ。

やっぱりさっきの違和感は気のせいだったかなとぼくは皿に盛ったお菓子 ―チョコやら煎餅やら― とコップ二つを持って戻ってくる。



「………」



右手を上へ伸ばし内側へ曲げる、掌は頭の後ろに。もう片方の手は畳について体を支えるように伸ばされている。

短なセーラー服、スカートが故意に捲り上がっていて、細い太ももが覗いていた。


言うところの…グラビアポーズ、かっこようじょへん、といったところだろうか。平仮名の方が意味深に聞こえるのは漢字を好き勝手に想像して良いからだろうか。養女とかだったらどうしよう、みたいな。



「なにしてんの」

「じゅ、柔軟です」

「ああ、そう」



やっぱりおかしい、というよりも変だ。

効果音としてピンクの文字が飛び交いそうな、マニアック受けしそうな姫ちゃんのポーズはどこをどうみても柔軟には見えない、ていうかお菓子食べる時に何で柔軟なんかしてるの。


多くの疑問を持ってきたコップの中の麦茶と一緒に呑み込んで、姫ちゃんをもう一度見遣る。

向かいに座るぼくに見えるように、というよりも何もない狭い部屋だ、見渡せる中に姫ちゃんがいるわけなのだが。


姫ちゃんは本人曰くの柔軟を解いて、教科書とノートを床へ落とし、テーブルに置かれたチョコレートへ手を伸ばした。

包み紙を解いて、手に弄んで口に含む。何で手で弄ぶ、ほら、手の体温で溶けたチョコが姫ちゃんの手にべったりと…


やれやれとぼくは腰を上げる。



「布巾持ってくるよ」

「あ、大丈夫ですよ」



マジでか。大丈夫なのか。


一体どこがどのように大丈夫なのかが気になってきた。

じっと姫ちゃんを見つめていると、姫ちゃんは何だか恥ずかしそうに身を捩じらせながら、徐に舌を覗かせた。

そうして人差し指、中指、薬指、と順に口に含んでいく。舌で付け根から爪先へ向けてそろりと舐め上げて、それから口に含む、数度上下させてゆっくりと指を引き抜く。

口から銀の糸がつつと引いて、ぷつりと切れた。



………いや、ええと、そうだな。

弁明しておくならば、ぼくは決して勘が良い方ではない、鋭いかと聞かれれば鈍いと答えるだろう。それぐらい鈍感である。

だからこれからの推測はぼくの鈍感な勘が知らせてくれるものなのだから頼りにはならないし、馬鹿にされる筋合いもない。何せ当たっている確率はほぼ零に等しいわけなのだから。



「姫ちゃん」

「ひゃい!」

「指を離しなさい」

「はい」



まだチョコレートの残る指先を口から離させる。

ひゃいだなんて気の抜けるは行で、ぼくがくらりとくると思ったら大間違いだぞ。どちらかといえば、はうんとかの方がくると思う。言ってもらった事ないから分からないけれど。



「ぼくの勘違いだったら聞き流してほしいんだけど」

「はい」

「さっきから誘われてるのかな、ぼくは」



そう、ぼくを、声色を変えて何度も呼んだあの時も、あの柔軟も、今のチョコレートを舐める仕草も。


いや、決してどこか下腹部より下を直撃されたとかそういったことではない、断じてない。

仮に万が一にでもそういった姫ちゃんからの勇気ある行動であれば、女の子にそういった恥をかかせっぱなしなのは男としてよくないだろう、こうやって訊ねている時点でという突っ込みは問答無用で聞き流す。



「誘うですか」



あれ、違ったかな。

姫ちゃんは複雑な顔をしていた、強いて言えばそういう風にとれちゃってましたかといわんばかり。とれちゃいましたよ、どうしてくれるんだ、ぼくの下腹部より下の部分を。

…いや、違うよ、足の…太腿のことを言ってるんだ。ぼくの太腿は姫ちゃんする行動によっては痙攣を起こしかけることもあってだな…これ、誰に言ってるんだ…



「違った?」

「違ったと言えば違ったですが、違ってませんか?と言われれば惜しいですと返します」

「惜しいって言えよ」



何だろう、何を、察してほしかったのだろう。というかやはりぼくの予想は外れていた、恥ずかしい。

いや、恥ずかしいことなんてないだろう、ぼくは前置きをしていたはずだ、勘は鈍い、と。つまり予想は外れていたが勘の鈍さは当たっていたということになって…あれ?



「好きって言って欲しかったです」



言っちゃったよこの子。

今までの努力は何だったんだ姫ちゃん、いや努力してたのか鈍感なぼくには分からないけれど、少なくとも名前の声色を変えて柔軟をしてチョコを舐めて見せた努力を一瞬して泡にしちゃって…



「姫ちゃんってエム?」

「いいえ、エッチです」



な、なんという…!!

いやいや、だから大胆過ぎるんだって。何だよエムに対する否定とその正答、エッチって。エッチだったのか姫ちゃん、一体どんな風にエッチなんだ。声の色変えたり柔軟したりチョコ舐めるぐらいなのか?ぼくは…耐えられるのか…!?



「イニシャルの話じゃないですか?」



姫ちゃんの勘は鋭いようだった。

せめてワイって言って欲しかったな、そうしたら鈍感なぼくにだって…ええ、姫ちゃんの一人称ってワイだったの!?なんて…



「何でやねん」

「心を読むのはやめてくれ」



それはともかく。

ふむ…



「姫ちゃん」

「心をこめてお願いします」

「言う気なくすなあ…」

「ししょーうー」



くそう、可愛いな。

純粋無垢がぼくのタイプと知っての犯行か。タチが悪いぞ。



「…好きだよ」



まあ、萌えたので言ってあげる。



「えへ、えへへ、ありがとうございます」



予想外に喜ばれてしまった、ていうか顔赤っ!赤っ!!

沸騰した顔で嬉しそうにほほ笑む姫ちゃんを向かいに、ぼくはテーブルに頬杖ついてその様子をぼんやりと鑑賞していた。


たった一言、すきの二文字を言ってもらうためにいろいろ考えたんだろうか……考えたんだろうな。さしずめ、ぼくのタイプはどんなものか、だろうか。


バカだなあ、理想と現実の違いってのを知らないのか。



となると色んな声でぼくの名前を呼んでたのはどれに反応するか見てたんだろうか……例えば、もし野太い声で反応してたらどうする気だったんだ…しないけれども。驚きはするけれども。でも平静を装っちゃうけれども。


一生懸命、野太い声離す姫ちゃんを想像してしまった。

……なんていうか…



「…ししょう?何かおかしいことでもありましたか?」

「いや…姫ちゃんが好きだなあと思って」

「はうんっ!」



襲うぞこのやろう!