自我なんて大それたモンが芽生え始めた時にはもうそこにいて、そこにいるのが当たり前になってて。

いない方がおかしいなんて違和感を感じる事なんてしょっちゅうあって。

でもそれは何らおかしい事でも不思議な事でも、ましてや嫌な事でもなくて。


それが当然、それが日常。



変わっていくことが大人だなんて思えない、立派だなんて、当然だなんて。


ドキドキするんだ、ズキズキするんだ。


怖いよ、変わるなよ、どっかなんて、いくなよ。

キミとオレの5センチのキョリ

「人識くん」



砂糖を蜂蜜で溶かしてチョコレートの上にぶっかけたような、甘ったるい声が、後ろからした。


振り返るまでもなくそれは舞織の声だったけれど、振り返らないで歩いていると後ろから泣きじゃくる声がしてくるから渋々振り返る。

えへ と花いっぱい散らしたような笑顔が溢れていて、そういやこいつの泣き顔なんてここ最近見てないなとぼんやり思った。



「おっす」

「おはよーございます」



軽く手を上げて挨拶を交わす。


律儀に頭を下げる舞織の、これはもうトレードマークのようなニット帽のてっぺんを見つめた。

この時期にぴったりのボンボンがついていて、動きに合わせてぴょこぴょこと揺れる。

無性に鷲掴みたくなってソレに手を伸ばそうとして、顔が思い切り上がり、その手が掴まれた。


心臓が、跳ねる。



「うお!」

「どーしていつも先行っちゃうんですか」

「…あー」

「あーじゃなくて」

「んー…」

「んーでもなくて」



細い、白い、折れそう、の三点セットを兼ね備えた舞織の指が、まるで癖のように、人識の指へと絡んでいく。

氷のようなひやりと冷たい指、爪が…少しだけ、長い。


絡んで、昔してたように手を握り締めて、舞織は寂しげに恨めしげに唇を尖らせた。


自分よりもたっぷり五センチ低いその怒りはまるで怖くなくて…ああそういや昔はこいつの方がでかくて怖かったなあなんて。

触れ合う指先が熱を持っていて、そちらから意識を逸らすように考えを巡らせるも、ねえと声が掛かる。



「わたしと、登校は恥ずかしいですか?」



そう、イマドキ、中学生にもなっておてて繋いで女子何かと歩けるかよ、注目の的もわざとらしいぐらいだぜ、というのが男としての本音。

でも、舞織に悲しい、ましてやこんな顔をさせたいわけじゃない、というのが幼馴染としての本音。


いつからだろうか、そんな事を思うようになったのは。

ホントは今すぐ昔みたいにギュグーッと抱き締めてやりたい、山々と。



とりあえずすぐさま首を振って否定を示す。

伝わるわけもない俺の気持ち、だって自分でさえこれが何なのか分からない。


もどかしくて歯痒くて…自分がどうしたいのか相手にどうしてほしいのか分からないなんて、ガキじゃああるまいし。



「んなわけあるか」

「…そう、ですか」

「?そうであってほしいのかよ」



ん、う、…うな…と口籠る奇声、珍しいなと空いている手でニット帽をボスンボスンと叩く。

抱き締めてやれない俺からの、精一杯の…表現だ。


……なんの?



「わ、うぷ、な、何するんですかあ」

「今日日直だったんだよ」

「……ほんとに?」

「おう、俺が嘘ついたこと」

「いっぱいありますね」



まあ否定はしない。

返事せずに歩き出すと、後ろから慌てたような足音が駆けてくる。

気配で伸ばし掛けたその手は、行き場なくふらふらとして、結局戻されていく。

それを気配で感じ取って、ホッとして、がっかりして。


俺は、何がしたいんだろう。



とりあえず本当に日直だった今日に感謝してみる。

これで日直じゃなかったことが知れたなら、舞織は愛らしく口を尖らせて拗ねて、俺の大好物のチョコパンを与えなくてはならなかっただろうから。


いやでも、違うクラスなわけだし、隣だけど、隠そうと思えば隠せるはずだ。

隠す気がないのか、隠したくないのか。




ともあれ、舞織は人識が日直という事に満足したらしく、ふわふわとした足取りで隣の教室へと入っていってしまった。

…まあ、何て言うか…ゲンキン、てやつなんだろうがな。


人識も自分の教室のドアをくぐり、慣れた机にぐったりしたリュックを置いた。

もう少し、別れを惜しんでほしいというか…アレだ、一年の頃のように、離れたくないですよう、すぐまた会えるから離せって、恥ずかしいだろ、的な。なあ?


からかわれたくないというのは本音だ。

大人しくて騒がしい舞織のことを無粋に邪な目で邪推なんてしてほしくないし、それで舞織が傷付いたりからかわれるのはごめんである。


でも、それでも相反する気持ちとしては、からかわれたいというか、密かに、というよりも堂々と人気のある舞織に慕われる俺、を見つめる遠巻き、というのも中々、なのである。

いや、ほんとうに、ゲンキンな話ではあるけれど。



教室には誰もいなかった。

そりゃそうだ、日直はクラスメイトが来る前に朝の仕事を終わらせておくのが役目なのだから。

そうして日直は男子一人と女子一人から構成されている、片割れの…名前が思い出せない、少女はまだ来ていない。



「さて、やっちまうかあ」



この年で深く彫った刺青に似合わず、紳士なのだ。自分で言うのもアレだけど。まだ中学生だけど。


女子から喜ばれたり礼を言われるのは好きだ、放課後に人識君ってちょっと怖いけどかっこいいよねーなんてのも中々乙なのだ。

その中に、いつも、舞織の姿を探す俺は、愚かだけれど。


いるはずもないのだ、舞織はこの手の事に酷く疎いし、そもそも関心がない。

絶望の淵に立たされながらも、健気に諦めない俺。


……んん、何を?



黒板の端に寄せられた黒板消しを手に嵌め込んで、本日の日付と、日直の名前…片割れの子の名前は…まだ思い出せないので書かないでおく。

朝日にきらきら光る魚に餌を一つまみくれてやって、ベランダに並んだ三十以上の鉢植えに水を、入れようとジョウロを持ったところで後ろから音がした。


舞織かと振り返る。自分のクラスが俺一人であるように、舞織のクラスも一人だったのかも知れない。

一人が嫌いじゃないらしいけど、好きでもないはずだ。ぼんやりが飽きたら来るかなと、そんな淡い期待。


は、脆く崩れ去った。



「ご、ごめんなさ、遅くなっちゃって…」

「ん、いや」



名前の思い出せない少女の登場、ジョウロ片手に窓を閉めた。

耳を刺すような冷たさが、じわじわと痺れと共に消えていく。


少女は、人識よりも赤い頬で、苦しそうに胸を押さえながら、自分の机にカバンを置いた。



「寝坊、しちゃって…ごめんねっ」

「かはっいーぜ、べつに」

「あと何残ってる?私やるよ」



名前の思い出せない少女は、そうだ、確かこのクラスの学級委員長だ。

真面目で温厚で頭が良くて慕われていて気がきく子。


人識はジョウロを掲げた。



「あと水やりと机整理。俺水入れてくっからアンタ机やって」

「うん、う、ううん、水冷たいし…私やるよっ、やらせて…お詫びに」



ぶっきらぼうな物言いに、涙を浮かべる女子は少なくない。

気付けばこんな口調になっていたものの、この子は臆する事無く、手を伸ばした。


責任感強いな、あいつとは正反対だと、来ることを期待した舞織の姿を浮かべた。



「…ひ…零崎くん、…なんか良いことあった?」

「は?」

「にやにやしてる」

「…してねーよ。いいよ、俺、いくから」



しまった気を抜いたなと、頬を軽く叩いて、その手を制す。

顔引き締めついでに水入れ、してこようとドアへと歩き出し、ツ、と後ろへ重心が傾いた。



「う、お」

「…ぃ、ね」

「ん?」



だぼだぼのパーカーを引っ張ったのは、この教室にいる俺以外のもう一人、その少女、いい加減名前を思い出したいところだぜ。


少女は顔を俯けて ―あいつじゃあないからボンボンではない、つむじが見える― ぽつりとつぶやいた。

耳が赤いのは、寒さのせいって事で、良いだろうか。


良いと、しておきたい。

この展開は、まずい。



閉じられた外では、登校してくる生徒の声が段々と増していた。

じき、この教室も騒がしくなる。


ドクンドクンと高鳴る心臓は、不安、である。

よしてくれ、冗談だろ、自意識過剰だよ俺ってば、かはっ



「私、人識くんが、好きなの」



震える声は、こちらにまで伝わるようだった。

聞き慣れたその名を、聞き慣れない声で、呼ばれた事に、ざわりとする。


頼むぜ、俺はそんなに、良いやつじゃ、ない。


アイツ以外、目に、入らないんだ。



そういえば、いつからひーくんじゃなくなった、いつから人識じゃなくなった、いつから人識くんになった…

妙にしおらしくなって、でも無邪気に窓から部屋へ侵入する癖は消えなくて、甘えるように抱き付くそれは回数を減らし、寂しい日に潜り込んできたアイツは良い匂いがした。


泣きたくなる、不安に、潰されてしまいそうで。



「ずっと、名前で呼びたかったの…」

「、お、れは…」



カタと音がして、今度は人違いであってくれという願い。

顔を泣きそうに歪めた舞織の姿を目に入れた瞬間、俺は叫ぶ。



「舞織!」



合図のように走り出す舞織、後ろから声がしてももうそんなこと、どうでもよくて。


いつから俺の方が足が速くなったんだろう、いつからこんなにも、愛しく…



「見、るつもりは…無くて」

「舞織」



ヒュウヒュウと切れる息が、静かな廊下に大きく響く。

折れてしまいそうなその腕を隠す、長い袖を掴んで、漸く引き留めた。


可哀想なほど震えるその小さな体は、あの少女の比にならないほどの思いを湧かせて、やまない。

抱き締めたいと思う前に動いたその腕は、小さな体を抱き込んだ。


五センチしか違わないから、頭の上に顎を乗せ、なんていう理想とはほど遠い、精一杯の抱擁だったけれど。



「、で」

「え…」



その腕が、自分の背に回されたことを認識して、もうどうにかなってしまいそうに、なる。

ああ、この危険な感情は、何だろう。



「行かないで、ください、人識くん」

「どこに。行かねえよ、あんた、すぐ泣くし」

「いかないで、人識くん、一人は…いやですよう」



ぐしぐしと泣き出した舞織の頭をぎゅうと抱き締める。

久しぶりに聞いた泣き声は、恐ろしいほど胸締め付けられるものだった。



お前こそ、俺を置いて、どっかいくんじゃねえぞ。



熱くなる目頭はツと閉じて、甘く匂うその唇へ……




三周年企画、最後のいっこでした〜。
人舞で幼馴染みでお互いを意識し始めたぐらいじれったい感じ、ということでした。