「楽しんでおいで」



お兄ちゃんはそう言いました。


わたしはお兄ちゃんの望む通りになりたいから…

人識くんと、こんな険悪なままでいたくないから…

あと何センチ?

「…おい、どうした?」



家を出て歩数にして約50歩目にして、一つ目の角を曲がる。

そこで不意に、自分の少し後ろを歩いていた舞織の足が止まった。

目の端で確認したその小さな頭、くるり と振り返ればると、その小さな頭が俯いていた。



「…ごめんなさい」



その言葉に形の良い眉がピクリと上がり。

誰に対して、何に対して、詫びているのか


こいつは、鈍いからなぁ…


そんな事を思う。



「何が?」

「…何がって、…人識くん、怒ってるじゃないですか!」



冷ややかな瞳が嫌だったのか、それとも白々しい返しが気に障ったのか、舞織が声を荒げた。

周りの人が好奇の目を向けたのにハッとして、また小さく、ごめんなさいと呟く声がした。


そんな舞織を一瞥し、人識は、ふい と踵を返し歩き出した。

後ろで、少し慌てた風に小走りの足音が聞こえてくる。



「…まぁ…怒っているけど…何で怒ってるか、分かって謝ってんの?」

「……わたしが、お兄ちゃんに、キスしようとしたから…?」



舞織は少し間を置いて、ぽつりと小さく言った。


俺の怒りの要因の一つをちゃんと理解している事に、少しだけ驚く。

が、やはりまだ甘いなと内心で盛大な溜息。



「…あとは?」

「え?」



もう一つあるの? と言わんばかりの驚きがすぐさま返ってくる。

無言で応と返せば、舞織は腕を組んで唸り出してしまった。


まぁ、こいつにしては珍しく的を得たわけだし、譲歩してやるかと人識は顔をそちらに向けた。



「兄貴に、抱き付いただろうが」

「…あ、…あー……」



それは、そうですけど、でもそんな意味もなくて、あれはただのスキンシップというかですね…

言い訳するように焦って紡がれる言葉に人識は顔を背けた。

堪えきれそうにない笑いに、口元を手で隠し、あうあうとこまった風の声を漏らす舞織に、先程までチクチクと尖っていた心が丸くなっていくのを感じた。


本当は分かってるんだ。何の気もなく意識もしてないし、互いにそういった感情じゃないってことぐらいは。

そんなスキンシップさえも許してやれない自分は情けないけど、でもそんな二人をただぼんやりとみている傍観者だなんて絶対御免だった。

彼氏の我儘だと思って許してくれよと。


そこで不意に、背中に何かがぶつかった。



「…っとと…、舞織?」

「そのことも、ごめんなさい」



後ろから、ぎゅうと。

いつの間に近づいたのか背後から回った腕に目を瞬かせる。

抱き締められている。



「お兄ちゃんに、そういうつもりでしたんじゃない、し…こ、こうやってる時とお兄ちゃんにする時とは雲泥の差があるわけで、し、心臓だって飛び出しそう…なんです…」

「そうなんだ」

「です…お、お兄ちゃんと違う、ってことぐらい、…気付いて下さい」

「うん、ごめん」

「…でも…」



背中から小さく伝わる心臓の動く速さに、じわじわと込み上げる愛しさ。

何でこんなに焦れったくて、いじらしくて、健気なんだと。

俺みたいな心狭い意地悪いやつなんかに捕まって、可哀想だなと思いながらも、口元の笑みはもう隠せそうになかった。



「人識くんが嫌がるならもうしない…から…だから、機嫌直して下さい」

「うん」

「…ホントに?」



さらりと返ってきた返事に、舞織は目をぱちくりとさせる。


回った腕を解いて、体をそちらに、向かい合わせてギュウと抱き締める。

腰にある大きなリボンが少しだけ邪魔で、リボンの下辺りに手を置いた。



「うん、もう大して怒ってねぇし、それに…」

「それに?」

「こんなカワイイ格好でカワイイ顔してオネガイなんてされちゃあ…許さないわけにいかないだろ」

「……ッッ」



ニヤリ と笑んだその顔に一瞬首を傾げかけて、言われたその言葉を漸く理解した途端、顔がカァッと熱くなるのを感じた。



「…隠すなよ。化粧もしてもらったんだろ?折角なんだからもっとよく見せろって」

「…ぅ……ぁ…」



バッ と両手で顔を覆って蹲ってしまった舞織を他所に、人識は意地の悪い笑みを浮かべた。

ぶんぶん と顔を振って、手を離す事を拒むが、人識の力は強く、半ば無理矢理に手を退かされてしまう。



「…うん、…カワイイ」

「―――っ」



しゃがんだ状態のまま、こつん と額を合わせる。

先程から紡ぎ出される言葉に、舞織は困ったような顔で、更に朱を深くした。



「…なぁ」

「…」

「さっきの。…丸っきり怒ってないっつったら、嘘なんだわ」

「…え?」

「俺にもキスしてよ」



抱き締めるってのは、一応、さっきしてもらったしさ。 と言い放つ人識に、舞織は、赤かった頬を更に赤く染める。



「…、…っ、……でも…」

「ほら、早く。…俺の気が変わったらどうすんだよ」

「……ぅ…あ…」

「はーやーく。祭り、混んじまうぜ?」



頬で良いから と横を向く人識。


逃げようにも、がっちりと手を掴まれていて逃げられなかった。


このまましゃがんでいる状態も、こんな雰囲気の状態も嫌だった。

お祭りにも早く行きたいし。


舞織が意を決して、唇を人識の頬に近づける。



「…―――ッ」

「なーんて、な」

「…ぅ、んっ!?」



頬に触れる瞬間、人識の顔を舞織に向いた。

ぐい と引っ張られる手。


重なったのは、唇同士に他ならなかった。



「…んん――っ!…んっ、、ふ、…ぁ…っ、」



いつの間に回ったのか、後頭部に添えられた手によって、顔を離すことができない。

酸素を求めて口を開けば、ぬるり と湿ったソレが、舞織のモノと絡んだ。


ぺたん と地に付いてしまう。


折角の浴衣が汚れちゃったかなぁ…

そんな的外れな事を考えていると、ちゅっ と音を立てて唇が離れた。



「ごっそさん」

「……」

「そんな顔すんなよー、誘ってるようにしか見えないぜ」

「っ!違います!これは怒ってるんですよ!」

「ごめんごめん。ほら、さっさと立って祭り行こうぜ」

「ぅあ…っ」



グイ と手を引かれて、引っ張られるようにして立ち上がった。

ぼんやりしているうちに、人識は舞織の浴衣を叩いて、さっさと歩き出してしまう。



「…あ、待って下さいよう」

「ん、ほら。手ェ、繋ごうぜ」

「……うん」



と、繋ごうとした人識の手が、スッ と自分の唇に触れる。

何かと訝しむ反面、またキスされるのではないかと、心臓が早鐘を打った。



「口紅、少しとれちゃってるな」

「え…口べ、…あ、あー…口紅ですか、あー…」



ほっとしたようながっかりしたような、複雑な心境に舞織が頬を染めていると、人識は、紅の付いた赤い口を弧の形へと歪ませた。



「またちゅーされると思って期待したんだろー?ヤラシイなー、舞織は」

「!!ちっ、違いますよう!」



可哀相なほど赤くなる舞織の様子に、人識は殊更楽しそうに言い放った。



「ヤラシー」

「―――ッッ人識くんのばかーっ」



パァ…ン…ッ



痛そうな音は、祭りの太鼓の音にかき消されてしまった。