どこからか、笛の音が聞こえてきた。



「…お祭りかなぁ」



つぅ…と額に伝う汗を拭い、一つ息を吐いて。

舞織はオレンジに染まり出した空を仰ぎ見た。

小さな風が吹いて、手にしていたビニール袋を揺らした。その袋を持ち直し、舞織は止めていた足を進めた。

あと何センチ?

「伊織ちゃん伊織ちゃん伊織ちゃん!!」

「!!っはい、何ですかお兄ちゃん、言っておきますがおやつなんか買ってきてないですよ!」



いつの間にか汗ばんでいた掌を拭って、ドアノブに手をかける。

夏の夕涼みもあてにならないもので、玄関先の日陰の涼しさに、安堵の息が漏れる。


ドアの閉まる音を聞きつけたのか、リビングから慌ただしい足音がこちらへ向かってくる。

誰だろうと顔をあげると、双識が濃い色をした何かを腕に抱えて駆け寄ってきた。



「伊織ちゃんに似合うと思って!買っちゃった!!」

「…え?」



喜々としたその表情に首を傾げつつ、自分に当てられた藍色をしたソレをまじまじと見た。

手にしていた色は深い藍色、自分の肩から足先を隠したその長い布は…



「浴衣?」

「最近、駅前に和物店がオープンしたでしょ?今日、ちょっと寄ってきたんだ」



そうしたら伊織ちゃんに絶対似合うコレが置いてあってね!!!

双識は息荒くそう告げた。


人の賑わう駅前の通りの和物店に、異質極まった背丈のあるスーツ姿の男がいたならば…

射抜くような瞳をしていたかと思えば、次の瞬間に破顔して着物を眺めていたなら…


想像すれば何とも面白い光景だけれど、思わず吹き出してしまいそうだったけれど、それを遥かに上回ったのはきゅんという心臓の締め付け。

感動にも似た思いが舞織の中へじわじわと浸透していく。



「お兄ちゃん…」

「うん?」

「ありがとう」



感謝の意を込めて、頬に唇を寄せて…―――



ぽふっ



「ひ、ひろひひふん!?」



舞織の口元に、温かさが伝わってくる。

けれどそれは、双識の頬ではなくて、人識の掌だった。


いつからいたのか、ちっとも気付かなかったと掌を口にあてられたまま、ぽかんと人識を見遣る。

玄関口で、双識の舞織の間に入るようにして姿を現した人識は、舞織へ視線をとめる。



「冗談でもやめろよなー」



軽く放たれた言葉。……目が笑ってない。



「……」

「へぇ、にしたってキレイだなぁ、ソレ。うん?」

「きっと伊織ちゃんにとても似合うよね!今日は近くの神社でお祭りみたいだし良いタイミングだと思って買ってしまったよ」



ビビって畏縮した舞織を他所に、二人は楽しそうに会話を進める。…いや、楽しそうなのは双識ただ一人だろう。

ここは空気のような存在になりきって逃げるしかないと舞織がゆるゆるとローファーを脱ぐとすかさず声が飛んできた。



「舞織」

「はっはい?!」

「行くか?」

「…どっ、どこにでしょうか?」

「お前…」

「お祭りだよ伊織ちゃん。私もアスも一緒に行ってあげられないから。人識と行っておいでよ」

「…ひ、人識くんと?」



ひくり と頬の筋肉が引き攣った。

その顔を人識は見逃さない。



「嫌?」

「いいいえいえいえ!とんでもないですよう!光栄の至り、いたっ、いたた、人識くん、痛いですよう!」

「顔が笑ってない。…もういい。行くのやめた」



そう言って人識は顔を逸らせた。

俯いたその顔は、年不相応な、けれど見た目としては相応な、幼い子が傷付いたような顔をしていた…ような気がした。

少なくとも舞織にはそう映った。



「………なに?」

「…ダメ……です…」



ダメだ、このままでは…!

舞織は咄嗟に人識の服を引っ掴んだ。



変に意識し出せば、行きたいと言う言葉が出てこなくなってしまった。



「………じゃあ、コレと交換」



がさ という音がして、俯いた顔を上げると、悪戯っぽく笑んだ、いつもの人識がいた。


そしてその手には



「ああっ!それはわたしが後でこっそり食べようと思ったお、か…し……」



言いかけてハッとした。


わたし、さっき何て言ったんだっけ…

えぇと確か…



『っはい、何ですかお兄ちゃん、言っておきますがおやつなんか買ってきてないですよう!』


『言っておきますがおやつなんか買ってきてないですよう!』


『おやつなんか買ってきてないですよう!』


『買ってきてないですよう!』



「伊織ちゃん…」

「ははははいぃっ!!ごごごごめんんなさっ」

「私はね…おやつを買ってきた事を怒ってるんじゃないんだ、嘘をついた事を怒っているんだよ」

「はいっごめんなさい…っ」

「罰として…」



ああ、罰。罰って何だろう。いや、意味くらい知ってますよ。どんな罰なのかなって話です。


1週間お風呂掃除かな。

いや、1ヶ月食事当番かも。

ああ、まさか、お菓子禁止令なんて出ないよね。



「人識とお祭りに行って来なさい」

「…へ?」

「それが罰だよ。お祭りに行って、そのギクシャクしたものをなくしてきなさい。」



なくなるまで帰って来ないようにね。

ニコリとそう告げて、双識は踵を返した。






ゴトッ――タタ…ッ






ローファーが脱ぎ捨てられる音と、舞織が走る足音が、静かな廊下に小さく、人識の心の大きく響いた。



「――――ッありがとう…ごめんなさい…っ」

「ちゃんと楽しんでおいでね」

「うん」



駆け寄って抱き合って、微笑み合うソレは、まるで、そう、仲の良い男女に見えて。



「…チッ」



人識は舌打って、二階へと上がった。